2009 09 11

09 11

for maria発売の日。mariaの誕生日に間に合ってよかった。
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逢坂君と映像の編集が朝の5時過ぎまでファイル便のやり取りが続いていたけど、こっちも完成してよかった。
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全てが去年の今日、mariaの音楽葬とも言えるコンサートのfor mariaのために僕がfor mariaという曲を作ったことから始まった。その曲からこのアルバムは始まっている。
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この曲をアルバムの1曲目に入れて、最初の1音で世界の空気を変えるんだ、ということに集中していた時間がすごく長い。
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amazonでは発売日にいきなり完売して3〜4ヶ月以内には入荷とかいうものすごいことになってたけど、今は即日発送に戻っている。
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たくさんの人に聴いてほしい。

池上高志がこのCDのために書いてくれたテキストを載せたい。池上さん、本当にありがとう。
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for maria によせて。

研ぎすまされたピアノの音色が、複雑な自然現象と遜色なく、あるいはそれを上回った情報量で構築された作品である。そこに立ち上がる立体感と複雑さが、疑いもなくリアリティーを持つことに戦慄を覚える。それはまた今まさに壊れ行く心と、そこからの長い復活への道が、多重に入り組んだ形で進行する。

 一段落して外に出ると、目の前の道路がまっすぐミッテのテレビ塔まで伸びている。寒月が空にかかっている。これからクラブに偵察に行くという仲間を残して、そのテレビ塔目指して真夜中に歩いて帰った。マリアは、日本の半額以下で買ったコートのこととか、ミュージアムの前の甘い香りのこと、英会話の練習を真面目にやらなきゃならないこと、を語り、そうした平穏な会話に甲高い靴音が混じっていた。それはベルリンの凍てつく1月の夜なのに、今からすればまるで春の宵のような世界の話だ。

 DSDレコーディング、それの通常CDへの変換の編集を徹底的に追求したおかげで、このアルバムには狂気が隠されている。100万分の1秒の時間から立ち上がるピアノの音は、人の認知には処理しきれないと思う。しかし、その処理しきれなさの中にクオリアが生まれる。アルバムの先頭から順に曲を聞いて行くと、正反対の収斂の様子を表しているかのように聴こえる。生と死の影のような。その背後に横たわっている、みてはいけない、気がついてはいけない、ある種の張りつめた空間性や音の複雑さ、質感といったものがある。あたかも目の前で弾いているかのような、研ぎすまされたピアノの演奏によって、そうした経験のなかへと連れて行かれる。そのため、たまたま情動の欠片が紛れ込むと、あっという間に指数関数的に増幅されてしまう。

 ベルリン・ライブの打ち上げ後の、鰻の寝床のような細長いカフェで、キラキラ光るワインだかビールを飲みながら、なにが可笑しくてか、笑い転げていたマリア。日本語なのか英語なのかドイツ語なのか分からない言葉が飛び交い、それまで東京でも実はずっとそうだった彼女の、全体の輪郭が2重になるのは、記憶の時間が一つの方向に動いてないから。そうした時間の複数性や揺れの表現が、このアルバムの核心部であると僕は思う。たとえば、angel passed にみられるような。

 世界がビットで埋めつくされたセルラオートマトンでできているとしたら、またそうであったとしても、世界には巨大な不可逆性が存在する。いったんそこから出てしまったら決してたどり着くことのないエデンの園。いったん損なわれてしまうと、システムの外にでない限りは、再び戻ることはかなわない、という意味で、それがまさにシステムの外側を可能性として構成し、時には裕福にもしてくれる。世界はつねに意味的に開かれている、といってもいい。

 不可逆な時間というものはない。時間は何度も何度も同じところを行きつ戻りつ、多重につなぎ合わされる。立体的な音というものはない。単に球面調和関数の足し合わせに過ぎない。空間性と時間性が人の中に立ち上げるだけだ。あるいは立ち上がった場所を人とか主体とかいうべきなのか。渋谷さんとのフィルマシーンという作品もそうした主体の構成を目指したが、こうしたピアノ曲ほど、その主体を自然な形で強く位置づけ、自然のサウンドスケープとシームレスにつながって、その複雑さを螺旋状に昇降するものは、現状ではこのアルバムのような形でのみ実現可能なのかもしれない。

 アートとは新しい経験の生成である。徹底した科学的実践主義を貫きつつ、結実させたこの渋谷さんのアルバムは、渋谷さん自身の、あるいは彼を取り囲む全てのひとにとっての、文字通りの福音の書/アルバムとなっている。2年前の9月にマリアと渋谷さんと3人でサントリーホールに聴きに行った、アンドレイ・タルコフスキーの『進むべき道はない、だが進まねばならない』に寄せた、ルイジ・ノーノの次の一節を渋谷さんに贈りたい。
  
  人間の技術の変化の中で

  新たにこれまでと異なる感情

  異なる技術、異なる言語を作り出すこと。

  それにより人生の別の可能性

  別のユートピアを得ること。

池上高志