2006 10 30

10 30

ユリイカのバックナンバー「新しいカフカ」を読む。
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最近読んでいる90年代以降のバラードはカフカの後継だというのは非常に偏った実感だとはいえ、文学や音楽のように予め不可視なメディアにおいて不可視が故に可能なこと、例えば窒息感だったり空気の包囲感だったりを物語という枠組み自体を浸食する装置として機能させるという意味で極めて意識的であり、こういうことはあらゆるジャンルを通じて少ない。と思う。
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実際ヨーゼフKはバラードのコカインナイトでも引用されている、というか話の焦点になっているフランクはある意味ヨーゼフKのパロディだろう。
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現在という時間は911にしてもワールドカップにしても何でも見ることはできる。これは情報の密度、レイヤーの過剰が故にだとはいえ、では不可視なものだけができることは何か?ということに徹底的に意識的なバラードの小説はサウンドインスタレーションも含めた音楽の問題にも置き換えて考ると非常に示唆的でここで捻れてカフカに繋がるのだが、その捻れは終わりの後という意識(バラード)と始まりすらしない物語(カフカ)、という違いなのかも。
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それはそうと高岡早紀は何故あんな狂った写真集を出したんでしょう。
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これは要するに12年前に篠山紀信さんが撮った奇跡的に美しい、と僕は思う写真集があって、それと同じポーズ、シチュエーションで撮影されているんですね。
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つまり12年後の今の私がTIME DIFFERENCEを超えてあの時と同じようにカメラの前で演じます、ほら全然変わってないでしょう?というコンセプトなのですがめちゃくちゃ劣化しているのでコンセプトがコンセプトとして機能していないというか、自虐的にすら見えてしまうというなかなか凄いものです。
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僕は写真集は見ていないんだけど週刊誌などで見て大笑いしそうになりました。で、こういうエロスとして機能し損なったヌードにおける
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「同世代の女性に見て欲しい」
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というコメントほど訳の分からない恐ろしさと空虚さをたたえた言葉を僕は知らないのですが、これなどは可視的なるものの残虐行為展覧会とも言えるでしょう(←ちょいオチ)。