2005 03 24

03 24

夜、unknown remixreturns最終回の佐々木敦vs畠中実公開対談へ。雨で30分遅刻。

えーと、話していた内容としては大方後ろ向き(笑)というか厭世感漂っていて当初、最後の質疑応答で質問する予定だったのですがなんとなくする気がしなくなったので大人しく話を聞いてました。つまりmegoとかが初来日した98年頃と比べると驚くようなことがないよね、ということとこの先の展望が見えない。ということだったと思うんだけど果たしてそうなのかなというのが正直な感想で、僕的には当時も今も衝撃ということで言えばそんなにはないわけで、というか衝撃なんて無いですよ。当然という気持ちなのですが一般的にはどうなんでしょう。

これは作り手と批評家の受け取り方の違いかもしれないけど僕自身、音楽を作る_コンピュータで作るということで言えばまず衝撃を受けるかどうかはそんなに大事ではない+あるフォーマットなり形式から生まれたものは必然的な経緯から生まれていることがその文脈にいれば分かっているので驚くべきことはそんなに起きないというのが正直なところで例えばハードディスクの中だけで音楽を作れるようになった、というのはデータベースという意味でも恐らくピアノの発明とそんなに変わらないくらいの大きな出来事だと思うんだけど(MIDIはそれに比べるとエレクトーンの発明くらいか)個々の音楽について言えばその人の過去のアーカイブとの距離なり思い入れとのバランスが大きいと思うんですね。

例えばその衝撃の引き合いに出されることが多い池田さんの「+/-」やpitaの「SEVEN TONS FOR FREE」にしても歴史的に見れば「in C」なわけで、これがすごいという議論が長引くことはあまり意味がないと思うんですね。個人的な意見として例えば池田さんの作品で言えば「+/-」よりも「0℃」のほうが好きだし語られるべきだと思っていたんだけど「0℃」について語る人というのは「+/-」のそれに比べて非常に少ない。「+/-」の後に複雑性に向かったからすごい、ミニマリズムの後に複雑性に向かうのはすごい、みたいなミニマリズムという題目を巡る比較論的な話ではなくて作品そのものについて語るということで言えば題目が無い場合のほうが圧倒的に難しいのはもちろんなんだけど、ただ影響力、活性化など非常に現実的な効力として有効なのはそっちなわけです。(以上、引き合いに出してすいません>池田さん)。

もちろん佐々木さんと畠中さんはその困難を引き受けてきた数少ない二人で、僕も彼らの批評を読んで育ったというリスペクトは大前提として、ただその彼らをしてある種の煮詰り感を否定できないという現状をどう捉えるかというのは作り手(あ、嫌な言葉使っちゃったな・笑)としては非常に難しい。というのは、実験的な傾向の音楽の現状が決して良くないのは確かだけど、それと新しいタームが出現しないということはまったく結びつかないわけで、これは僕が楽観的過ぎるのかもしれないけど(楽観的じゃないとやってられないのも事実だけど)例えばCDが売れないとか、イベントの集客が少ないというのも非常に具体的に、一発録りのCD-R、マスタリング無しみたいな手抜きのCDが多過ぎたりイベントやっても音がショボイから謎の空間にしかならないということが問題なのは確かです。そういう些末なしかし一番大事な細部を丁寧に乗り越えることと実際の音楽の内包している問題というのはそんなに遠くないと思っています。

あと佐々木さんが途中で提起した「1時間に3回くらいしか演奏しない無音部分が非常に長い音楽があるんですよ、っていう話をした相手にそんなの聴きたくないと言われたときにどう対応するか」というのは結構重要な話だったと思います。結局、実験音楽(とあえて書くけど)の場合、どうしても歴史と切り離して考えることは難しいわけで、それを前提としてこれはいい、という場合に何故いいと思うのか、という論理が批評には必要だと思う。特に無音のように典型的に歴史的文脈にはまってるものと関連している場合それは避けられない。じゃないと趣味、生理の部分だけが浮遊している曖昧な状況になるしかないわけで。

などなど色々考える機会になってよかったです。全体的には。他にも色々あるけどそれはまた今度。