2006 09 19

09 19

1日中ダラダラ。こんな日があってもいい。
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filmachineについて友達の小説家・黒田晶ちゃんがインティメな感じで書いてくれた。こういう批評っていうか感想というかフィードバックは嬉しい。
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Filmachine:elegancE

渋谷くん率いるATAKと東大の池上先生のコラボを体験しに、
山口に行ってきた。山口情報芸術センターという
凄くクールなところから発信。http://msi.ycam.jp/

シンポジウムとかレクチャーにも参加したので、本来ならば紹介とか背景とか云々を語るべきなんだろうけど、驚くほどphysicalな、(はは!ダブルミーニングにフィジカル:物理学的)作品だったので、受けた感覚と印象という個人的な記録を記すしかないね。本当にカッコイイとか凄いとか感動するものって、言葉で説明するのが難しい。

私は抽象概念が視覚に変換される質のイメージ人間で、音なんか特に耳に飛び込んだ瞬間に物語に変換される。でも最近知ったんだけど、いろいろ人によってタイプが違うらしい。渋谷くんは完全に音オリエンテッドな聴覚人間だ。薄暗い箱の中に歩を進めると、段差があって自分の好きなところに立ったり座ったり横たわったりできる。真ん中には非常にドラマチックなスイッチがあって(物騒なイメージを喚起させると同時にワクワクするんだ、ぜったい押したくてたまらなくなるような)、それを押すと作品が始まる。爆音、でも音は連隊を組んでやって来るくせにひとつひとつがクリアなんだ。(すげえ!)洗練されたviolation,眼を閉じると周囲に配置されたLEDのフラッシュ残像が、ますます自分がどこにいるかを分からなくさせる。

パブリックだけどパーソナル、開かれていて閉じている。部屋の中には同時に何人もが作品を体験できるのだけど、共有することはできない・・・知覚は個人的な体験なんだという事実を鮮やかに提示されるからだ。自分が小説という物語を構築する表現を選択したこともあるけど、これはちょっとショックだったな。普通の音楽を聴いただけじゃこうは思わないよ。人間は物語を共有することで、世界を共有しているかのような夢を見る。そのトリックを積極的に利用して表現する人間からすると、聴覚がいかに物語というイージーな道を行かずにコアな部分・・・真理へと直行できるのかを目の当たりにして、OMG、またperceptionが変わっちゃったよ。

もっともっと!感じたこと思ったことエキサイトしたことがあるけど、ぜひ東京でも展示をやってもらって、もう一度考えたいと思う。

視覚は物語から逃れることはできない。
イメージ人間は心底それを理解したよ。
いや、絶望はしてない確認なんだ・・・自分がうまくできることをやるだけさ。

さてさて。
個人的にはいくら意味のある音楽でもカッコよくなきゃ意味がないと思ってる。カッコイイって、なんていうかグッとくるって感じでさ。さて、filmachineはその点どうだったか?

イエース、保証する。
全く新しいkickだ…凄くグッとくるぜ。