2005 04 28

04 28

夜、ICCヘ「オープンネイチャー展」内覧会へ。知り合い、友達多数のためゆっくり作品を見る時間はなかったので個々の作品については省略。今、「オープン」というと郡司ペギオ幸夫のオ−プン・リミットとの関係を考えずにいられないけど(事実、郡司氏はパンフレットにも寄稿している)ざっと見たところではまだ分からない。ただ、「美学的、クオリティ(クオリア)」系と「試み、プロセス」系の二極化はうっすら感じたがこれは現状を率直に反映していると思う。

久しぶりにカールステン・ニコライとマルコ・ペリハンに会う。特にマルコはpolarで日本に来たとき以来だからかなり久しぶりだ。二次会のICC近くのえびすという居酒屋は座り切れないくらいの盛況で、22時にやっと2階の座敷きの貸しきりが解禁になって乾杯。

畠中さんと色々話せたのは楽しかった。以前、3/24の僕の日記に対して畠中さんの日記で返信があったり、他にも反響大だったんだけど、あれはまず僕の書き方が紛らわしいというか隠喩的だという部分があってそれによってつまらない誤解が生じていた。ということを話しをしました。具体的には

>池田さんの「+/-」やpitaの「SEVEN TONS FOR FREE」にしても
>歴史的に見れば「in C」なわけで、これがすごいという議論が長引く
>ことはあまり意味がないと思うんですね。

というのは「あの場=uplinkの佐々木vs畠中対談」での議論のことではなくて、ここ数年「あれは衝撃だったよね」系の言説というのはずっと続いているのでそろそろ次ぎのタームにいくべきではないか、もしくは行かないと終わっちゃいますよ。といのは僕の認識で衝撃(っていうのも違和感あるけど)とかある種の新奇さということにフォーカスがいく傾向というのはその分野の成熟を見過ごすことになるわけでよくないと思うんですね。いや、だってさロックなんてマイナーチェンジというか微々たるアップグレードの連続を当然のように事件に仕立てたり共通の認識として書く=聴き取って書くライターや評論家によって存続したり大きくなったりしたわけで、僕は細かい動きを全部フォローして書くとかいう必要はないと思うけど語るべき内容を持った作品に対しては書くというのは責務ですよ!とか言ってたんだけど(笑)現状そういう作品は「応用偏」であるのことは必然なのでコンセプト1発というのにくらべると書きにくいのは事実なんですね。文脈とかでは書けないから。で、音について書く。という困難を引き受けられる人は特に日本では非常に数少ない+そういうものは書いてもそんなにお金にならないという問題もあってホントに大変なのは承知の上で畠中さんにはロックの批評なんてどうでもいいから(笑)とかいうことを言っていたのです。あ、あと途中から酔っ払って相当下らなくなってて「お前、イメージ崩れるからやめろ、日記も書くな」とか言われてました。

で、夜はUNITでやってるkompakt nightに行こうかなーと思っていて、「今日、ミハイル・メイヤーなんだよね」とか言ったらカールステンのアシスタントのアンディーが「ウソ、マジ?」とか言い出して皆で行くことに。急いでゲストの手配などして(笑)総勢15名でUNITヘ。カールステンがクラブの音が小さいのに驚いてた。で、まーその後は踊ったり、上のカフェで話したりして帰宅。長い1日。