2005 02 23

02 23

えーと昨日の日記の

では作曲の才能とは何か。というとなーんとなく思うのは素材的、技法的なな拡張、洗練を経ても「明るくも暗くもない」という状態をキープできる、ということだと思うんですね。思いっきり私見ですが

について、メールが来ましてそのメールとレスを載せると言いたいことが分かりやすくなるかもと思ったので(っていうか上のままだとちょっとユンユンな感じもする)コピペ。

>>素材的、技法的なな拡張、洗練を経ても「明るくも暗くもない」という
>>状態をキープできる、というのはエクリチュールとパッションのどちら
>>でもない方向という感じでしょうか。

>うーん、そういう感じもするけどね。
>なんか多様性に向かうと、というか音階も使っていて多様性に向かうと、
>まー当然、無調的になるわけだし音も濁って暗い感じになるじゃん。
>それを回避するっていうのはなかなか難しいと思うんだよね。
>単純に暗いほうが簡単に芸術っぽくなるけどカッコ悪い。
>フェルドマンとかそこにはまってることが多い気が。

ということでした。

あ、でamazonで追加注文したカーデューのピアノ作品集はえーと真っ赤かな、ブックレットに赤旗が載っているような真っ赤なCDで、完全に民衆歌をベースにしたスタイルに移行してて、確かにイギリスの民謡とマオ繋がりと思われるペンタトニックの融合など面白いんだけど、MATERIALのほうが好きですね。
こういう「政治的」な理由で大衆的と言われるスタイルへ以降することについて「とはいえそんなものは大衆は聴かないけどね」という批判があるけど、ではそれが無意味か。というとそうでもないんじゃないかというのが最近の結論です。例えばカーデューの場合スクラッチオーケストラにはナイマン、ブライヤーズ、イーノが参加していて、彼らにとってその経験というか体験というのは確実に影響として存在し続けていますよね。スタイルとして解放系だから。ということだけではないんだけど、ちょっと時間ないのでここまで。