2007 01 12

01 12

夜、サントリーホールで ポゴレリッチのピアノリサイタルに行く。
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ホントは忙しくてそんな時間はないんだけどポゴレリッチは特別なのだ。最後に行ったコンサートはもう数年前になるけど、そこで聴いたブラームスのop118-2は世界の孤独を全部引き受けるということがあればこういう感じなのかなと思ったりして、そのときの演奏というか音楽には凄く影響を受けた。
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彼の有名なエピソードはショパンコンクールで弾いたスタイルがあまりにも独創的なため審査員が難色を示すとそのうちの一人であったアルゲリッチが彼を落とすなら審査員を辞めると言ったとか、色々あるけどそれらはリアルタイムではないのであまり感情移入はできない。というかよく知らない。
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ただ、僕が強く感じるのはグレン・グールドに対する潜在的な父殺しのような演奏スタイルで、これはこの二人のCDを両方ともよく聴くから偶然気づいた非常に分かりやすい話だ。要するに同じ曲を弾く場合、グールドが速く弾く曲/箇所は遅く弾き、遅く弾く曲、箇所はフッ飛ばすように速く弾き飛ばす。まさに疾走するという感じで。
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また、そもそもレパートリー自体が被るところもあるがグールドが対位法的なヨコの流れの人だったのに対してポゴレリッチはタテの人、ソノリテの人である。バッハを弾いてもスカルラッティを弾いてもそこで鳴っている響きに対する明確なコントロールの比重がある。
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それで、さっき書いたのはいくつかの被っているレパートリーについてで、例えばトルコ行進曲はグールド=遅、ポゴレリッチ=速で、ブラームスのラプソディーはストレートに勢いよく始まるグールドに対してポゴレリッチは最初は弱音で遅く、後に急速に速く、op118-2はグールドが軽やかに流れる青春の歌(!)のようになのに対してポゴレリッチは月明かりの下で今にも止まりそうなくらい遅く、演奏時間はなんと倍近い。
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これはグールドの後でいかに演奏するか、という全てのピアニストに意図的にしろでそうでないにしろ降りかかる命題に対する一つの明解な答えな気もする。しかもそれが超人的というよりも非人間的と言ってもいい完全に制御されたピアニズムとロマンティシズムの合致によって実現したときには。
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よく、〜の影響を深い部分で捉えて自己の表現を豊かにする、とかいう言い方があるが影響や対象を深く捉えるということはあまり面白くないことが多い。特に現代においては。深く捉える、というのは自分の基準や枠組みにそれを沿わせるということでしかない場合が多く、いつまでも自分の住み慣れた垢のようなものとのミックスにしかならない。それよりは徹底的に唯物論的にやる、例えばポゴレリッチのように相手が遅く弾く曲は速く弾くとか。というほうが有意義で明解で面白い。
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これは演奏だけではなく音楽自体にも同様のことが言える。例えば9.11に深い影響を受けましたとかそれに捧ぐとかいう音楽に面白いものが少ないのは、それが自分の内的事情のスパイスにしかなっていないことが多く、しかもそのスパイスは予め共有されているため予定調和に終わることが多いからだろう。それよりは徹底的に描写してみてその果てに違うものが出てくるとかいうほうがよほど面白いというか意図を超えたものが生まれる可能性は高い。描写というのは対象があって初めて始められる/成り立つものなので自分のクセや手垢は邪魔になる。何かしら新しいやり方を引き出さないと出来ないのだ。ちなみにfilmachinephonicsの4曲目はそうした意図がある。
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ポゴレリッチに話を戻すと、彼はグールドに対する父殺しだけではなくホロヴィッツやつまりそれまでのピアニズムとロマンティシズムに対する提案、更新を非常に無意識的に継続しているというのが僕の印象で、その無意識過剰はエディ・スリマンとも重なる。しかしそれはあまり言及されることはなく、完璧と言っていい見事なテクニックを持ちながらそこから著しく逸脱する「演奏スタイルが独創的」という一言で終わってしまう場合がほとんどだ。批評というのはあまりにも浅いものが多く、そんなことは誰でも知っているし、これを近所のオッサンが言ったとしたら誰が耳を貸すのか?というのがほとんどなわけだが、ポゴレリッチに関しては特に、と言わざる得ない。
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それは単に分からない、分かっていないという以上に、音楽が感情表現だという前提、もっと言えば表現は人間の感情のためにあるというバカとしか言いようがない前提に固執している人間にとってはそうでないものは機械的、非人間的、独創的という枠組みの中に入れて語るしかないわけだが、表現や創造が人間の感情のためにあるとしたら世界に誰もいなくなったらどうするというのかね?自分のために?それは厳密ではない。音があって自分がいる、そこで何が出来るのか。世界の孤独というのは予めそのとき、の自分を仮定して生きて創る人間にしか引き受けられないし、何か自分が知らない見た事や聴いたことがないものを創るときそうならざる得ない。
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いかん、話が脱線するな。ポゴレリッチはそういうわけで従来の独創的という範疇を遥かに超えた演奏スタイルを押し進めるごとにある種の孤独を深めていったというのが客観的な見方として存在するのは確かで、それはついていけない、というファンも生んだだろう。1年くらい前の、久々となる来日リサイタルでは全てのテンポが異常に遅く、演奏終了後にピアノを蹴るなど悪夢のようだった、という評が出るほど賛否両論だったわけだが、では今回はどうなっているのか、これからどうなっていくのかという興味はとてつもなく大きくなって今日のコンサートに行くことにした、というわけだ。
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結果的に言うと素晴らしかった。恐らく前回のそれは試行錯誤のピーク、次の段階に行くジャンプの直前だったという気がする。それはそれで今になると聴きたかったが、今回はそれを突き抜けて前人未踏の域に達していたと思う。
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特にベートーヴェンのピアノソナタop78は完全に脱構築的というかベートーヴェンを様々な音響的事象に解体して、しかも安易な再構築は拒み瞬間の変化と響きに徹底的にフォーカスした演奏を最後まで分節的に展開していて非常に新しかった。これは新しい解釈だった、というのではない。音響的に新しかった。簡単に言うと高音のアルペジオをアタックの連続などはピアノですらないように聴こえた。
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古典の曲をどう解釈するか、とかあの曲のあの部分をどう弾くかというそれ自体が古典的な枠の中で行われている「新しさ」の競争=狂騒とは完全に無関係に、もはやピアノという音響体をどう鳴らすか、10本しかない指の動きで響きの輪とウネウネとうねる線をどう複層的に配置するか、という興味にシフトしていることは明らかで、でなければグラナドスやパラギレフといった音楽的には?な、しかしその用途には適したというチョイスは有り得ないし、仮にピアノでやっているがピアノでなければ出来ない、音響と音強、音圧と極度な変化はいかに可能か、というモデルケースを見ているという意味でリストの演奏もすごく考えさせられた。
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コンサートは1/15に同じ東京のサントリーホールで、1/18には大阪のシンフォニーホールであるので興味ある人は是非行ってみてください。特に東京はブラームスのop118-2を弾くし。