2006 06 11
06 11
現代というか現在に対して真剣に対峙するというのはどういうことだろう。と最近考えることが多いんだけど。
__
思うのは意外に少ないということです。これはアートでもアカデミズムでもファッションでも一緒で広い意味での癒し系みたいなのが多過ぎて辟易している。
__
もちろんこれは俺はちゃんとやっているのに!とかいう話ではなくて。ただあまりにも真剣さが足りないんじゃないかと思うことが多い。情緒に逃げ込むなんていうのは簡単なんだぜ。
__
penっていう雑誌の佐藤可士和さんの特集の号を買ったんだけど、佐藤さんのデザインは好きなものも好きじゃないものもあるけど、コンセプトと決断は潔いしそこに至る過程で膨大な情報が振るいにかけられていることはよく分かる。興味の対象が広範囲、つまりミーハーであることはその後の振るいの精度が高ければ武器になるし、同時にそれは誠実さでもあると思う。
__
世界が自分の認識だけで成立しているわけではない、ということに意識的なわけだから。
__
ある種の情報を得るには時間も体力も金もかかるわけで、現代という時間に対して何らかの傷を残したいと思ったらそれに対する努力というのはするべきなんじゃないか。何も知らないでこれが美しいと思うとかこれがやりたかったんですとか言われても困るし、そういうのはゴミだなと思うことがほとんどだ。
__
自分の認識の宇宙で再構成された美学の押しつけというのが癒し系になる確率はすごく高い。「分かるでしょ」「うん、分かる」「きれいだよね」「うん、きれいだね」という確認からは何も生まれないしホントにやめてくれと思う。
__
佐藤さんの話に戻ると密度に対するバランスの取り方が傑出していると思うんだけど、密度を構成する情報が広範囲であること、つまり世界は広い。という書いたり言ったりするとバカにしか見えないことを実感のレベルで認識していることが現在では傑出しているんじゃないか。これは重要なことだと思う。
__
もっと簡単に手に取れる、自分の身近な情報だけで楽に現在を構成している人がほとんどで、そういうの輩が癒し系を構成しているわけでホントにいい迷惑だ。ドルガバとかバレシアガとかデミアンのドローイングを実際に買って見たり着たりするというのはそういう楽さ、とは違う。
__
実際に労して手に入れれば何が自分にフィードバックを起こすのかということは分かるし、それを引き起こさない情報はクズだということも分かる。
__
そいえばpenという雑誌は内容が希薄、というかあまりにも他の雑誌の影響が強過ぎるんじゃないかと思うことが多いんだけど、この号は非常に密度が高くて充実している。編集ディレクションが入っているんじゃないかっていう気がするくらい。
__
しかし久しぶりに広告の話をたくさん読んで思ったのは消費との距離というのは難しいということで。
__
隔離されていればいいかと言うとそうでもない。繰り返し書いている癒し系アートみたいなのはその閉域故に起きていることだし、じゃあ広告やファッションに優れた表現が多発しているかというと決してそうとも言えない。ただ言えるのはアートやアカデミズムは先鋭性を失ったらほとんどの何も意味がないけど消費とリンクしているものはそうとも言えないということだ。
__
例えばファッションに関して言えば最近はほとんど興味を持てないものになってるけど(主流はとんでもなくコンサバだから)、エディ・スリマンとか何人かの例外は消費とアーティスティックなせめぎ合いの中で非常にチャレンジングな実践を続けている。そういうレベルにあるものに関してのみに言えば
__
これは結構困難なことだと思う。それは続けるということの大変さだけじゃない。
__
もうすぐ2007年の春夏コレクションが始まる。まだ2006A/Wも店頭に並んでいないのに。
__
未来に対して作り続けるという孤独が分かるかな?
__
そこには安直な相互理解どころか他者すらいない。つまり未来という時間には自分しかいない。