2005 04 23

04 23

ワタリウム美術館でやっている岡倉天心展を見に行く。

僕はずっと岡倉天心という人に興味があって、とは言っても「茶の本」を読んだりネットでちょっとだけ調べたりしただけなんだけど非常に示唆的な人だと思う。老子の思想から道(Tao)ではなくて虚(vacuum)をみるというのはすごく深い。部屋の壁や屋根を見るのではなくて空虚、空間を感じることによって自由な運動や思考は可能になるというのはまさにそうだなと思うときがある。展示というか視覚的な満足感はあまり無いけど体系的に知るには非常に良いと思う。復元された六角堂でなごむ。多分会期中にもう一度行くと思う。地下のon sundaysで買った新訳の「茶の本」(大久保さんというフランス文学系の人が書いたみたいで読みやすそう)を読んだ後に。あ、ちなみに単純な右翼的パッションという方向性での共感はまったくないです。時々みかけるそうした誤読は誤読でしかないと思う。on sundaysの草野さんと久しぶりに会って話す。ATAKのCDはほぼ完売してるのでまた納品することに。デミアン・ハーストの新しい作品集が渋くて良かったけどあまりにも高いので買わなかった。そうだ、草野さんに聞いたんだけどNYのタワーレコードは潰れたらしいですね。びっくり。

あと、久しぶりにコードというか和音というか楽音を使って音楽を作って分かったことはコード的思考はいかにダメかということで、例えば一定の拍があってキーもメロディーもある場合、セブンスの平行移動なんていうのはまったくもって命取り、定型一直線です、やめたほうがいい。和音とメロディーというものがある場合、特に人間が歌ったりする場合、三和音もしくは二和音、もっと言えばベースだけでどうするかというほうがよっぽど深いし自由だ。

例えばGメジャー→F♯マイナーという進行の場合に高域でラシというドローンを押さえて例えばトップをレ→ドの移動(よってラシレ→ラシド#の累積ができる)という風にした場合Gメジャーにラは入っていても9thということにはならない(ファ#がないからということもある。ちなみにファ#が入ってたりすると台無しおじゃんです)し、発想としてコード的ではないので他の可能性、選択肢も探しやすい。はず。要するにラシという二音のドローンはメインの和音の移動とは別個に存在する層として考えればいいわけで、これは雅楽とかガムランの思考に近い。だからエライとかイイっていう話ではなくて和声的思考とは別のベクトルのものが同時に存在していたほうがサムくならないということです。ちなみにラシのドローンは笙の合竹でいつも押さえてる音ですね。こういう思考というのは逆に楽音を使わないコンポジションでも有効だと思います。だから、ですね。無反省にパッドとか呼ばれるような雰囲気の音もベターと押さえるのは止めましょう。あのバッドっていうのが嫌いなんですね、なんだバッドって(苦笑)。層で。いったほうがいいしそれだと知識じゃなくて耳でかなりいけるはず。です。と誰に言ってるのでしょう自分にです。