2016 09 17

空の痛みを僕たちは感じられるか?

 

THE ENDの公演でヨーロッパに行ってからもう一ヶ月が経とうとしている。

ツアーの折り返し、ハンブルグからデンマークに移動する前日、日帰りでベルリンに行った。

 

ベルリンにはたくさん思い出がある。

インスタレーションを初めて日本以外で発表したりコンサートをしたり、大事な友達が出来たり雪の中泥酔して走ったり。

 

ただ、それらと別に強烈に記憶に残っている場所があって、それがユダヤ博物館だった。

 

2008年の2月、filmachineという最初の大きなサウンドインスタレーションをベルリンで発表するために僕は一ヶ月近くベルリンに滞在していた。

毎日毎日、evala君とホテルと展覧会場を往復して下手な英語でドイツ人に指示を出したりライブの準備をしたりしていた。

 

発表したインスタレーションは連日大盛況で、ハイナー・ケッペルズに絶賛されたり、関連イベントでやったコンサートではカールステン・ニコライの前に演奏してスタンディングオペーションが止まらず、持ってきた120枚のCDはその場で売り切れ、終演後にはmariaが強引に楽屋に連れてきたマイケル・ナイマンに「きみの音楽は未来の音楽だよ!」とか激賞されたりした。

クラブに行けばコンサートを聴いた人が僕に次から次へと話しかけてきたりして、僕はちょっとした人気者になっていた。

 

つまり音楽は完璧に近いかたちでうまくいっていた。

当時やっていたすごくノイジーな音楽がこんなに褒められるなんてことはなかったから褒められ慣れてない僕は有頂天になったりもした。

でも、同時に僕は生きた心地がしなかった。

 

当時の僕の妻だったmariaは一ヶ月のベルリン滞在の後半に日本から合流したのだが、ここを訪れた2008年2月は彼女が亡くなる4ヶ月前で彼女の精神状態は混迷を極めていた。

 

僕と彼女は頻繁に些細なことで言い争い、つまりめちゃくちゃ関係は悪かった。

大成功したコンサートの後で関係を修復しようとしてステーキを食べに行ったりすると、そこでも言い争いになったり泣かれたりして、僕は途方に暮れていた。

 

そんな中で突然、彼女は自分のルーツであるユダヤ博物館に行きたいと言い出した。

彼女はウクライナ系ユダヤ人と日本人のハーフで、あの頃はなぜかユダヤ教の本を読んだりしていたからその提案はすごく自然に聞こえた。

極度に混乱する精神状態の中で彼女が何を思って自分のルーツに興味に持ち始めたのか、わかるようなわからないような気持ちだった。

 

ただ、僕は喧嘩にも飽き飽きしていたし、僕からどこかに行こうとか言える雰囲気でもなかったから、彼女からの提案は不幸中の幸いのような感じで僕は大賛成して博物館について行くことにした。

 

ユダヤ博物館は建築家のダニエル・リベスキンドの代表作で、彼の家族は実際にホロコーストの被害者でもある。

建物の外壁にはたくさんの亀裂のような線が刻まれていて、それは窓を兼ねていたりもするのだが、ユダヤの歴史の傷を表している。

そして館内は緩やかな傾斜と微妙な歪みでできていて、それらはユダヤの歴史の苦難を表している。

 

 

初めて見るその建築はとにかく圧倒的で、それは美しいとかカッコイイとかいう言葉では片付かない、強烈な意思に貫かれていて僕は感動した。

そして、それは彼女も一緒だった。

 

ただ、彼女の精神状態は悪いままで、突然泣いたり怒ったり笑ったりという感じで、ここでも僕はどうしたらいいのかわからなくて、一息つくために外に続く扉を開けて「亡命者の庭」と書かれた場所に一人で出た。

 

亡命者の庭には高さ6メートル、7×7に配置された49本の巨大な石柱が立ち並んでいて、柱の数の49はイスラエルの建国年1948年に1を足した数で48本の柱の上にはベルリンの土が、残り1本の柱の上にはエルサレムの土が入っている。
そしてそこには平和と希望の象徴であるオリーブとグミの木が植えられ、茂っている。

 

 

2月のベルリンは外に出ると十分に寒い。僕はダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、その柱を眺めたり平静を保とうとして何をするわけでもなく佇んでいたら、mariaも扉を開けて庭に入ってきた。

 

特に話すこともなく二人でその柱の間を歩いたり、走ったりしているときにふと空を見上げると僕は言葉を失った。

 

僕がそのときに見たのは真っ黒な空に走る無数の白い傷だった。

 

 

漆黒の空を石柱の間から見上げると、生い茂るオリーブとグミの木の枝は黒い空に白い無数の傷を描いているように見えて、それは建物の外壁に「ユダヤの歴史の傷」として描かれた亀裂、線と完全に対応していた。

いや、対応というよりも呼応していて僕には繋がっているようにしか見えなかった。

 

これが建築家の意図を持ってなされたのかどうか正直よくわからない。

 

でも、僕には天空に無数の傷を描く木々の枝にしか見えなくて、「すごい、空に傷が無数に走っている」とmariaに伝えると彼女も静かにそれを見上げて僕たちはそのまましばらく無言で立ち尽くした。

 

なんとなく久しぶりの静かな空気が二人に流れて、それは安堵というよりもまさに真空のような感じで、しばらくしてから僕が「これは絶対リベスキンドは意図してると思う」と言うと彼女は「慶一郎は思い込みが強いからな。でも気づくというかそう思えるのはすごいね、アーティストなんだね」とかなんとか言っていて、それが本心なのか嫌味なのかわからないけど僕は言葉を繋ぐのは止めて、またしばらく空を見上げていた。

 

これが彼女と最後に行った日本以外の場所になった。

彼女は展示を見ながらウクライナ系のユダヤ人と日本人のハーフという自分のルーツと向き合い、そのあと僕の強烈な思い込みか感動かよくわからないものに付き合って、でもそれはそれで満足そうだった。

 

そんなことを思い出しながら今回、僕は8年ぶりにユダヤ博物館を訪ねたのだ。

ただ、前と違うのは今回は「亡命の庭」に行くために来たことで、僕はそこに辿り着くと同じように立ち尽くして空を見上げた。

 

そして僕は再び驚くことになる。というか陶然とした。

 

49本の柱の上には当時と同じように木々があり、それは同じように生い茂り空に無数の亀裂、傷を入れていた。

ただ僕は決定的に8年前に見過ごしていたことに気づいたのだ。

 

石柱の間に入って空を見上げると、空とそれに傷をつける木々の枝、その周りの石柱が空を十字に分割していた。

 

 

これも建築家の想定にあったかどうかはわからない。

でも、今見ると確かに空は石柱によって十字に分割されていて、その中を無数の傷が走っている。

 

こんなことに気づくのに8年かかった。

8年前、僕は空の傷にしか目がいかなかった。

そして8年前と同じようにそれが意図されたものかどうかもわからない。

なんていうことだと思う。

 

でも、こんな風に少しづつ気づくことがあって、それをそのときなりに受け取めながら生きていく。

次に来たときはまた別のことに気づいたり思い込んだりするのかもしれない。

 

そんなものかもしれないとも思うし、それは決して悪くないとも思う。

 

というか生きるというのはそういうことなんだろう。

これはその凝縮した例なのかもしれない。

 

そして僕はこの「亡命者の庭」は本当に凄いと繰り返し思う。

意図しているのかどうかもわからないけど発見と解釈は確実にそこに存在する。

そして何も変わらない。空と石と木があるだけだ。

 

僕も死ぬまでにこんな作品を作ってみたい。どうしてもどうしてもここに辿り着きたい。

 

ただそこにある、それだけで存在する。そこに無限の解釈と思いが生まれることを希望と呼ぶならこの庭はまさにそれだと思う。

 

 

All Photograph by me.