2013 06 10

高橋健太郎さんによるTHE END評

音楽評論家の高橋健太郎さんが自身で発行されている電子書籍による音楽雑誌「エリス」あとがきで書かれたTHE END評が話題になっています。

 

僕は死ぬまでに読まないといけない紙の本が膨大に自宅や事務所に摘んであるので、電子書籍を読む習慣がありません。

なので、ノーチェックだったのですが、この「エリス」は熱量と密度がすごいです。

僕好みな濃密な論考ばかりで一冊というもので、特に若い人とか読んでほしい。

 

僕が大学の頃は音楽芸術というの雑誌があって、それは現代音楽の特集やコンサートレビューがギッチリ書いてあるマニアックなものだったのですが、毎月買って読んでました。

それが90年代になると佐々木敦さんがやっていたFaderのようなものに移行していった。

つまり現代音楽的な「音による思索」というのは、あまりにも現代音楽が停滞していたこともあって音響派やブレイクビーツに移行していったという印象もあった。

 

しかし、これは現代音楽にとってもよかったと思うんですね。

音で考える的な面倒な領域というのが残ったわけだから。

 

それが、ここ最近になると「アルテス」やこの「エリス」といった、ある種硬派な文字が多い音楽批評誌が現れてきたというのが僕の超ザックリとした印象で、非常に歓迎しています。

 

芸術には批評が必要ですが、音楽批評は独特の難しさを持っています。

それが何か?とかを書く時間はないので割愛しますが、しかし批評と創造は創発しあうもので、これは何度も書いてますが批評がニューアカ崩れの言葉遊びや精神分析を水で薄めたようなものは本当に意味がない。

当たり前ですが、人がやってることについて書いているわけだから。

 

で、この健太郎さんのこのレビューというかテクストは嬉しかった。

入稿の関係であとがきにTHE ENDの感想を書くというのが、大幅に増えて6000字になったというそれは、様々な深読みが結構な確率で「アタリ」でそれは読み込むように聴く、観る深度と揺れる記憶が重なりあって、なんかあまり見たことがない批評になっていて、なんというか心が動きました。

 

というかもっと早く音楽家と評論家としての関係を始められれば良かったと後悔したくらいです笑

 

そして唯一の反論があるとすれば

>むしろ、音響については、僕は早々に、このくらいのものだったか、
>と判断したところもあります。
>フリーケンシー・バランスや音圧について言えば、音の良いクラブや
>野外サウンドシステムでは、もっと強烈な、あるいはもっと至福の経験ができます。

 

というところで。

これは僕、evala君、PAの金森さんの共通した今回の大きなミッションが、重低音もキックも電子音も使うけど「クラブ的にならない」ことだったのです。

ホール、オペラの枠の中でどれだけ未知の体感を作れるか?というのは非常に難しい課題だったので、これは継続してパリで展開出来ればと思っています。

 

上記リンクからも飛べますが下に貼っておきます。

健太郎さん、本当にありがとうございます。

 

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●『エリス』第三号の編集後記から、オペラ『THE END』について書いたパートを抜粋しました。

 

正直言って、オーチャード・ホールに足を運ぶまで、僕には不安もありました。果たして、楽しめるだろうか? という不安です。というのも、僕はオペラが好きではありません。ミュージカルですら苦手なくらいです。かつ、初音ミクも好きではありません。「ボーカロイド的なもの」全般は研究テーマの一つと言ってもいいですし、その巨大なアイコンとなった初音ミクを取り巻く現象にも強い興味は惹かれますが、好きかと言われれば好きではない。ヴィジュアル的には、緑の髪とか苦手ですし。

しかし、『THE END』は観たかった。渋谷慶一郎が初音ミクを素材にどんなオペラを作ったのか興味を惹かれたのに加え、オーチャード・ホールに8トンのスピーカーを持ち込んだという話を聞いて、それは体験しておかねば、と思った訳です。ただ、自分的には、〝音楽(音響)> 映像美術 > ストーリー〟的な勾配でしか興味を抱いていないのは明らかゆえに、音楽(音響)は楽しめても、〝映像美術やストーリーは全然駄目でした〟的な結果に終わることも覚悟はしていたのです。

ところが、始まってみると、予想は見事に外れました。むしろ、音響については、僕は早々に、このくらいのものだったか、と判断したところもあります。フリーケンシー・バランスや音圧について言えば、音の良いクラブや野外サウンドシステムでは、もっと強烈な、あるいはもっと至福の経験ができます。8トンのスピーカーを持ち込んだとはいえ、底の深いオーチャード・ホールで得られる音響には限りがあると思えました。位相の混乱なども、座席位置によっては多分にあったはずで、オーディオ的には理想の状態とは言い難い。ただ、普通のステレオ・チャンネルでは処理しきれないような情報量を10・2チャンネルの立体音響を使って空間にぶちまけているところは、とても面白いと思いました。音響に関しては最初の数分でそう判断し、自分の耳をそっちに向けてチューニングすると、〝音楽(音響)> 映像美術 > ストーリー〟という興味の勾配も、僕の中からすっと消え去りました。

立体音響といっても、映画館のそれのように声や物音が動くためのマルチ・チャンネルではなく、音楽の多層的な構造を聞き取れるように、空間を大きく利用しているのだと分ると、同じように、映像も二次元的なスクリーンにそれを映し出すものではなく、立体的で、多層的な構造になっているのに気づきます。そして、物語も、たぶん、そうです。たぶん、というのは、あまりにも情報量が多過ぎて、一度観ただけでは記憶しきれず、解釈するまでに至らないところがあるゆえの控えめな表現ですが、始まりのエピソードからして、僕は引き込まれました。初音ミクの部屋に、初音ミクと同じ緑の髪をした誰かがやってくるのです。

その誰かはミクの真似をしているけれども、全然、似ていない。そのミクの偽物は、自分は人間だと言います。そして、ミクに貴方は死ぬって考えたことある? と問うのです。そこから、「私は死ぬの?」と自らの死を考え始めたミクのモノローグが歌い綴られるのですが、ボーカロイドである初音ミクを真似した偽物が人間である、という設定に僕は強烈に痺れていました。なぜなら、それは国分純平くんの言う「機械になりたい」と見事に重なりあうからです。

しかし、「初音ミクになりたい」は、過去の音楽史の中に散見された「機械になりたい」とは微妙に違うかもしれません。というのは、クラフトワークの「マン・マシーン」的なものは、決して、現実ではなかったからです。あるいは、「ロボ声」という言葉がありますが、ロボットのような声を出す、と言っても、実は私達はロボットの声を聞いたことがありません。私達の身近には、喋るロボットなどいないのですから。過去のSF映画などの中で描かれたロボットのイメージから、ロボットのような声を想定しているだけです。よくフェイズをズラしたエフェクトがロボ声には使われますが、あれなどは、SF映画で宇宙空間を描く時にポーンというリヴァーブの効いた効果音が使われるのと同じです。現実とはまったくリンクしていないイメージの産物です。

ところが、初音ミクの場合は違います。彼女の声は街角でも聞こえています。そして、今やカラオケで初音ミクの曲を歌う人達もいるのです。「初音ミクになりたい」はイメージの世界の出来事ではなく、すでに現実です。

面白いことに、『THE END』では初音ミクの偽物である人間の声に、フェイズをズラした「ロボ声」的なエフェクトが使われていました。フィリップ・K・ディック的とも言ってもいい、この逆さまの世界設定によって、僕はもう物語の中に転がり落ちるしかありませんでした。

 

『THE END』の中のミクが、私達の知っているボーカロイド・ソフトウェアの初音ミクであることは、終盤近くのアリアで明らかにされます。情報をインプットされて、初めて歌うことができる。インプットされていない時は死んでいるのと同じ、ということを(言葉は正確に思い出せませんが)ミクは歌うのです。というところからしても、『THE END』が初音ミクというボーカロイド・ソフトウェアを取り巻く社会現象に対して、批評的視座を持ったオペラなのは間違いないでしょう。

また、その日は空にヘリプコプターが飛んでいて、何か不穏な出来事を感じさせる日であることが示唆されます。それは舞台が3・11以後の世界であることを想起させずにはおきません。

しかし、誰かが何かをインプットしなければ死んだ状態であるはずのミクは、冒頭から彼女のリヴィング・ルームらしき部屋の中に存在しています。そして、「死」について自ら考え始める。あるいは、それは自ら考えているのではなくて、誰かがインプットした台詞を歌っているだけなのかもしれないですが(その場合の誰かは、スクリーンの背後に透けて見えるブースの中にいる渋谷慶一郎その人になるのかもしれません)。

僕はオペラについての知識がほとんどありませんが、『THE END』を作るにあたって、渋谷慶一郎がオペラという形式を意識的に保守しているのは、よく分りました。ミクは音楽的な都合に合わせた歌詞ではなく、物語に必要な台詞をたくさん歌います(レチタティーヴォと呼ばれる形式であることを後で知りました)。それはニコニコ動画で多くの人が親しんできた初音ミクの曲達とは、かなり距離があるものだったでしょう。しかし、ボーカロイド・ソフトウェアというのは、オペラ向きであるようにも思えます。もともと、オペラ歌手というのは、ボーカロイド的な存在であったとも言えるでしょう。彼や彼女は、シンガー・ソングライターのように、自分の実人生を自分の地の声で歌う存在ではありません。オペラを歌うために作り上げられた声でそれを歌い、物語の増幅装置としての役割を果たすのです。初音ミクとの違いは、彼や彼女はオペラが終わったら家に帰り、それぞれの生身の人生を生きるところかもしれません。

ただ、生身の人間はそんなに自分の「死」について考えるものでしょうか? ミクの偽物は、自分は人間だから死について考えると言います。しかし、多くの人間は生きるのに忙しいものです。私達の日々は隙無くプログラムされていて、すぐ隣にあるはずの「死」は意識に昇ることなく、過ぎていきます。

二度目にミクの部屋にやってきた時、偽物は強く臭います。それは死を連想させる腐臭ですが、自らはその臭いに気がついていないでしょう。

死は近くて、遠いものです。私達は人生の中で家族や友人の死を経験しますが、私自身の死は私の手の届かないところにあります。私の死を経験するのは、私以外の人達です。私は私が死ぬことを知っていますが、いつどのように死ぬかは分りません。考えても分らないことについては、人は考えること自体を遠ざけるものでしょう。

というところからすると、『THE END』は人間(偽物)が初音ミクに「死」を考えさせる、という物語になっていますが、実はそこで、普段、考えない「死」について考えさせられているのは、人間(観客)であるという構図も見えてきます。

ある意味、それはボカロP達によって調教される存在であった初音ミクの、人間への逆襲のようにも映ります。

 

『THE END』では徹頭徹尾、ミクの「死」についての問いが続きますが、それが暗澹たる印象を残さないのは、死とは無縁の、あるいは最初から死んでいるのかもしれないボーカロイドに「死」を歌わせていることに加えて、エンディングに向かって音楽がおおいなる歓喜を呼び寄せるからでしょう。電子ノイズとクラシカルなストリングスが交錯する冒頭から、オペラの形式に忠実なステージが展開していくに従って、音楽はどんどん情報量を増して行きます。レチタティーヴォから憶えやすいメロディーを持つアリアへと移行して、ポップにもなっていくのですが、しかし、リフレインするミクの歌の背後では、重低音が鳴り響き、撹乱されたリズムが蠢き続けます。そのボトムの方が変化し続ける、という構造は、ジェームズ・ブレイクのファーストに聞けたそれにも近しいものだったりします。ボーカロイドの巨大なアイコンである初音ミクを、J-POP的な音楽から解き放ち、クラシカルなオペラを歌わせたかと思えば、アブストラクトなダンス・ミュージックの最前線とも共振している。これには心躍らない訳には行きませんでした。

『THE END』には、ミクとその偽物に加えて、巨大なウサギのようなキャラクターが登場します。そのウサギ(と、とりあえず、してしまいます)がミクに英語で話しかけるところから物語は始まるのですが、ウサギが何物なのかは、最後まで明かされません。ブースの中の渋谷慶一郎とウサギが入れ替わるシーンがあった、と言っている人もいますが、僕は見逃したようです。

ウサギはミクの何かであり、ミクのことを心配している。しかし、ウサギが何のメタファーであるかを読み解くことは困難です。が、立体的で多層的な『THE END』はそもそも、明快に読み解けるようには作られていないようにも思えます。渋谷慶一郎と岡田利規の間でも、物語についての解が一致しているのかどうかは分りません。音楽と脚本だけでなく、映像、舞台、音響などを含めた総合芸術として、この電子オペラとも言うべき作品が成り立っていたのも明らかです。それらのスタッフ全員が同じ解を持って、これを作り上げたとも思い難いところがあります。なにしろ、それは「死」についての問いなのですから。

 

「死」にまつわる経験は、誰にとっても、個人的なものです。となれば、『THE END』の解は、それぞれの私的な物語に還元されざるを得ないようにも思われます。ステージの中盤、ミクの歌う「会いたかった」が、英語で言う「I miss you」であることが説明されるシーンがあります。もう会うことができない人に向けて、「会いたかった」と言ったのだと。もう会うことができない人は、当然ながら、死者を連想させます。

渋谷慶一郎が亡き妻に捧げたピアノ作品集『For Maria』を聞き続けてきた僕は、そこで『THE END』が彼の作品としては『For Maria』に続くものであることを感じ取りました。音楽的にも両者には連続性が見て取れます。とはいえ、もう会うことができない人が誰であるかは私的な物語の範疇であり、そこから先は、僕は言葉を失います。

が、その一方で、『THE END』という電子オペラは、私的な物語を越えたところでの「死」との出会いに、観客を導く作品であると思えるところもあります。先にも書いたように、私達が抱える私的な物語の中にある「死」は、家族や友人の死です。私は私自身の死を体験することはできません。しかし、『THE END』では、観客は初音ミクという存在にオーバーライドして、自らの死に接近していくのです。

『THE END』の音楽と映像によるスペクタクルが頂点に達するのは、ミクとウサギが魔獣と化して、空を駈けるシーンです。「死」についての物語だったにもかかわらず、そこで僕は言いようのない幸福感に包まれました。ホールの空間をかけめぐる情報の粒子を浴びているだけで幸せというような感覚です。

ディストートしたベースが床から沸き上がり、ミクの声は人間にはあり得ないスピードや音色変化を獲得して、電子ノイズと束になりながら、こめかみで砕け散ります。全てが渋谷慶一郎らしいピークに振れて(しかし、カオスにはならずにコントロールされていて)、オペラが彼のライヴと等しくなったと思える瞬間でもありました。

その空駈けるシーンの前に、ウサギはミクにこんなことを言います。もともと私達は合わさっていた、その時、貴方は人間に近かった。ここが最大の謎でした。

ウサギはミクの何なのでしょう? かつて、ミクとウサギは合わさった一つの存在だったことがあった? その時、ミクは人間に近かった? この謎について、僕は考え続けましたが、どうしても解けませんでした。

ただ、ミクとウサギが合わさって魔獣となり、空駈けるシーンからは、セクシュアルなイメージが浮上してきます。思えば、死はセックスに、セックスは死に結びつきます。私達は自分の死を体験することはできませんが、たぶん、セックスを通じて、自らの誕生に触れ、死に触れるのです。とすれば、死についての問いがセクシュアルなイメージの奔流へと結びつき、歓喜を呼び寄せるのも不思議ではありません。

『THE END』は音楽、脚本、映像、舞台、音響を含めた全ての膨大な情報量をホールの空間にぶちまけることによって、僕の想像をそこまで導きました。初音ミクの死をめぐる問いの果てに、観客を自らの誕生と死に向かい合わせることに成功したのかもしれません。それは強靭で、爽快なエンターテインメントとして成立していたと思います。謎は残ったままなのですから、難解な作品には違いないのですが、デヴィッド・リンチの映画にも似て、そんなことは全く気にならない。映像の空間描写の素晴らしさと、音楽による時間コントロールの巧みさ、その融合を可能にした上演方法の新しさが、僕を1時間半のジェットコースターに乗せました。それは残念なくらいアッという間の体験で、しかし、余韻は何日も続きます。

そして、それが消えぬうちに書いておこうと思ったら、僕の文章はすでにこんな長さになってしまっています。