2007 12 21

12 21

夜、ONJOのコンサートへ@科学未来館。
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ONJOは初見だったんけど、特に前半の即興と曲の中間領域を漂う感じがよかった。これは演奏者による自律性が強弱だけなく音の有無や音程、フレーズとフレーズになる前に溶けてゆくものが、複雑に絡み合っていて演奏の可能性を引き出している故の心地よさがある。違う時間軸が共存するという印象がやや弱いのが残念ではあったが、恐らくこれはステージに並んでいながら相互の音があまり聴こえないモニターバランスというコンセプトが起因しているように思う。
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David TudorのRain forestのように聴衆が動き回れて固定されない空間における聴取とステージと客席におけるそれという形式の違いでもあるのだが、ステージ形式の場合は相互の音が明確に聴こえたほうがアンサンブルは自律的なコントロールが容易になる気がする。
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また、大友さんの演奏を聴いて感心するのは音の長さと消え方が完璧に近いタイミングとバランスを維持していることで、例えば今日で言えばギターのそれはアンサンブルの入り、消え方に影響を及ぼしていたと思う。なんというか非常に肯定的な意味でトーンとしての正解を提示する感じがある。
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しかしこうした自律的なアンサンブルにコンダクティングが入ると、それは自律的でないアンサンブルにおけるそれよりも強い意味を持つ。当たり前だけど。つまり即興を前提にしたアンサンブルの場合、では即興ではないものは何かという問題が残る。
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コードやメロディの断片を含む曲という単位なのか、例えばジャズのようなある音楽スタイルなのか、コンダクティングやサインによる合図とそれによって揃うことなのか。おそらく、全部であると同時にそうした明確な分割線は意識されていない、というか明確な分割線がなく多様性のなかに並列に存在するという意図があることは分かる。
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多様なものが多様なまま共存できる世界というのは常に追求されているが、そこにジャズのようなあるスタイルやある連続性をもった曲のような単位を導入することで、即興だけのそれとは違った時間の進行、揃うこととずれることの共存のさせ方の可能性を模索しているという理解が間違っていないとすれば、コンダクティングの前後で演奏の音が変わってしまうのは問題かもしれない。
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曲という枠組みを前提としたコンダクティングは即興の管理というよりも通常の指揮、つまりオーケストラの指揮者によるそれの簡略化に極めて近い。つまり、ずれていることの不自由さから揃っていることの自由さを再発見するというのはクラシックの演奏家に即興的な余地を与えた曲を演奏させたときによく起きることで、演奏家にはそもそもそういう性質がある。今日の場合もコンダクティングによるユニゾンからジャズへという部分で演奏が生き生きとして一つに収束していってしまう。
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しかしこうしたあるスタイルへの収束も大きな枠組みでの多様性と考えることはできる。が、しかしやはりこれは今回のようにモニターバランスのコントロールによって互いの音をあえて聴き合わないような制約を設けた状況での、<音楽>へのある種の回帰を感じずにはいられないし、その場合制約の持つ意味はあまりよく分からない。
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特定のスタイル、つまりジャズであったり、ひらがなで「うた」と書くようなニュアンスの素朴さが一定以上の複雑さを持った音楽/時間の中で持つ意味はすごく強い。それによって大きな時間枠でみた場合、曲と曲でないものという分割線が出来てしまうと同時に即興とそれ以外という枠組みも作ってしまうわけで、こうした対立軸は古典的な意味での音楽を強固にしてしまう。というか聴く耳も演奏も曲を待ってしまうことになる。
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そうした場合、即興は曲の飾りに聴こえるのと同様に、複雑さと単純さのコントラストによる時間的/層的な分割というのは複雑さが単純さの飾りになってしまう危険をはらんでいる。
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しかし危険をはらんでいるも何も、多くの人間がある種の「うた」的なものを求めているのであればそれはアリなのではないか、そもそもそれを否定するのは音楽の持つ豊穣さを拒絶してしまうのではないか、というのは一理あるのだがホントにそれでいいのかという疑念が僕にはある。
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つまり前衛なり即興なりのある種の複雑性から見た「うた」の再発見というのは届かない憧れのように決して成功することが無い、故に持続可能なテーマなのだと思うのだが、しかしそこで想定されている「うた」というのはあまりにもナイーヴな理想というかイメージに支えられていないだろうか。
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そのナイーヴさを僕は生理的に受けつけないし、要するにそんなに純粋なものがどこにあるのか?という気持ちがある。それだったら「ポリリズム」の合成着色料にガチガチに固められた「うた」のほうが僕にはリアリティがあるし、都市に「うた」があるとすればそういうものなんじゃないか。メロディーの問題としても。これはもちろん質の高い、低いの問題ではないが「うた」に即興や実験音楽の地点から質というものを言い出すのは端的に反動的なので不可能だろう。
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これはヴァンデルヴァイザー楽派のコンサートのときも思ったのだが複数人の即興は難しいところに来ている、というのはどうやら共通した認識で、そこである種の枠、つまり作曲の導入が試みられているとして、しかし作曲があまりにも単純だと情緒的な回収を生んでしまう可能性が高い。つまり「うた」になってしまう。で、これは今や批判の対象となっている「音響的即興」の回避にはなっても、ある種の後退でもあることも否めない。
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これがコンピュータの中のことであるなら仮の解決や方法は具体的に思いつくしコンピュータというのはそういうメディアなのだが、当然人間が集まって演奏する音楽の場合、答えと実践は各自の問題になるのでここで書いていることの答えはない。
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ただ、恐らく複数人の自律的なアンサンブルにおいて、曲という枠組みの比重は上がり、それを脱構築するのではなく解釈可能性や言わば作曲→編曲のプロセスのシュミラクルというような追求はしばらく続くだろうし可能性がある気はしている。僕は音響的即興否定や音色の問題というよりも演奏や人の手が持つ生理をどう拡大/縮小のコントロールの俎上に乗せるかテクニカルな問題が鍵になる気がするけれど、これはまとまっていないので今度。
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というわけで色々考えさせられたという意味でも非常に有意義なコンサートだった。やはりちゃんと聴きにいかないとダメですね。最近さぼっていたなという反省も。