2007 08 30

08 30

佐々木さんから渾身のATAK011ライナーノート入稿。間に合った。。
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速攻で黒田晶ちゃんに翻訳をお願いするために転送。
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そうそう書き忘れたんだけど昨日は夜、d-laboに遊びに行った。何故か体調が悪くて、というか体調が悪いに何故かもクソもないんだけど謎の汗がダラダラ出るから気持ち悪いので(概念的にも実際的にも)プールでガーッと泳いだりしたんだけど収まらず、諦めて出かけました。最近新しい曲とか音楽をつくるときに体調に変異をきたすことが多い。ある種の畏怖のようなものか。あまり意味が分からない。
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で、行く途中になぜか「あまり盛り上がっていないのではないか」という予感がはたらいてミッドタウンのリステアにフラフラ入ってみて、ほうほうDIOR HOMMEのセレクトが違うなしかもすぐ横にバレンシアガのメンズもあったりsuperfineのデニムが混ざって置いてあったりするしここは何でもあるじゃないかとか思ったりしつつ7Fのd-laboへ。
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今日のイベントはd-laboで本をテーマとしたサロン=d-labo読書部始めますということで、前半がトークショー、後半が歓談という感じだったんだけど、本というメディアの進化とか未来を考えるのにゲストの作家が「10年後も文芸誌があればいいなあ」みたいな感じだったので僕の予感は的中してました^^:
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本というものについて、データのようにフッ飛んだりしないし寝っ転がって読めるし持ち運べるからメディア特性として強いみたいなのは、本じゃなくて紙の特性だと思うんですね。紙と書くもの/書かれるもの、ということについて考えれば、それは変わらないなんていうはずはないわけで、例えばHDに残すということが可能になった時点でメモとタイプすることを選択している、つまり紙に書くという行為の意味は変わっているわけですよね、当然ながら。これはメモしよう、とか携帯のメールに入れておこうとかあるわけでしょう。
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では本という形態についてはどうかというと僕は変わらないものはないと思っている人間なんで、読むということが一定量の紙の束を持ってフンフンするということを指すのではない、ということになる可能性は高いと思うんですね。
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だから本が全くなくならないかどうかというのは、知りようもない未来の話なのであまりしても意味がないと思うんだけど、書く、読むという行為が紙という媒介を仲介しないときに何が起こるのかということは話す意味がある。で、少し戻ると変わらないであろう、故にそのメディアを愛すという人が面白いものを作る可能性は極めて低い、というのが私見です。
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音楽を愛してるとか言ってるバカが下らない反動ロックとかうんこフォークみたいなのを作ってることが典型なんだけど、本とか文学というものは永続的に残るだろうしそれ故に愛しているという人が面白いものを書く可能性は低いし、創る人間が変わらないとか残るということを愛せるという気持ちはあまり分からない。
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話を音楽に置き換えるとよく取材とかで渋谷さんが考える未来の音楽は?みたいな問いがあるけど少なくとも僕が生きている間に(僕は自分が生きている間のことにしかあまり興味がない。ということが最近はっきりしてきた)音楽は変わらないだろうし、それはつまり人はどうやってもメロディーとその他という聴き方をするだろうし、そう解釈できないものは認識しない/しようとしないというのが多勢という状況は変わらないだろうということなんだけど、つまりそれが音楽というメディアの特性で僕は憎んでいる。故に作る。という感じなんですね。こう書くと多少エディプス的な感じもするけどもう少し下品というか野蛮なヤツです。お母さんがヤリマンだったから女嫌いになるという人とやりまくるという人がいたとしたら僕は後者ですみたいな。ちょっと違うけど(ちなみに母はヤリマンではありません)。
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ただもう少し細分して見ると紙に書くことが自明だとされていた音楽も現在では紙に書くなんて全く主流じゃない、それは音色は書けないけどコンピュータでつくって保存はできる、ことによって変質した部分というのは確かにあるわけで、だから本とか文学だけが紙に書くことは変わらないだろうなんていうのは巨視的に微視的にも?なんですね。
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会場でlee君にTakramの田川君を紹介してもらってすぐに意気投合しました。なんかそのうち一緒につくれたら楽しそう。
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終了後は大勢でテレ朝通りで北京ダックとか。ここは料理の腕が行くたびに上達しているという「東京タワー」みたいな店だな。非常に楽しかったです。
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しかし朝青龍の空港のゲートを歩く顔を放映するのはよくない。あれは人々の鬱を誘発する気が。