2007 07 06
07 06
昨日、飲み過ぎてややダルな感じも残しつつ、13:30からYCAMでストローブ=ユイレ上映スタートなので8:00起床→シャワーを浴びてタクシーで京都駅へ。8:50にYCAMの阿部さんと待ち合わせて3人でYCAMへ。途中、新山口駅のたかくらで鮨。やはり山口の魚は美味しい。
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13:00前に到着してコーヒーなど飲み、メールレスなどバババッと書いてからストローブ=ユイレ開始。今日から3日間毎日3本を順番変えて上映するのですが1日3本というのはハードです。
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ちなみに今日はペドロ・コスタ監督によるS=Hの作品制作の過程を記録したドキュメンタリー「映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこに隠れたの?」104分、「労働者たち、農民たち」123分、「あの彼らの出会い」68分、レクチャートークという順番。
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圧巻は「労働者たち、農民たち」で、ペドロ=コスタによるドキュメンタリーも冗長なところがあるとはいえ面白かった。彼らについて語られるときに常套句となっている厳密性と編集のプロセス、議論などがつぶさに観れる内容なんだけど、映画は1秒間30フレーム(音楽はコンピュータの場合、少なくても480分割)とするとそのくらいの単位で厳密にコンポジションしないで作らないんだったら作らないほうがマシだと思うのですがどうでしょう。実際、画面の中の彼らにそういう厳密さへの苦行的指向みたいなのは微塵もなく、単にあるべき状態と連接を探すという自然な衝動と真摯さが溢れている。
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実際その真摯さは感動的で、時に激しい議論を含めた思考の層が完成形と美というものを保証するという事実を目の当たりにするんだけど、この「美」というのはこの国で日ごと安易に語られる「美とはなにか」みたいな出口ナシのヨタ話とは程遠い。
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僕が彼らに惹かれるのはまさにそこで、fixつまり圧倒的な完成度や美しさの効力の公使から逃げないで、かつ徹底的にあるべき姿を探すという方法を乗り越えつつ超越的にならないというプロセスの維持で、これは単なるコンセプチャリズムのように楽ではない。方法的が故に否定形が溢れまくる創作のための創作に時間を割くほど僕は長生きしないだろうし、とはいえやっぱ美しさがもたらすなんちゃらは解明できない謎でとかいうのに乗るほど無知ではない。S=Hをコンセプチャルとか苦行(このフレーズはレクチャーでも頻出してたけど浅い)とかいう文脈で捉えるというのは極めて不毛だ。
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そうそう、で、そのfix=コンポジションの強度は「労働者たち、農民たち」に極まっていて、当然引用や自己参照の織物、と呼ぶにはゴツゴツした岩のような手触りを残した不可視な時間の連続で出来ているので100%の理解は無理なのは前提として分節化された言葉や環境音、映像と光をただただ摂取するというだけでも濃密な層による構築とわずかな動きや変化が拡大されていく知覚の変化を気づくのも面白い。