2006 06 27

06 27

昨日、佐々木敦さんに頂いた発売になったばかりの「(H)EARーポスト・サイレンスの諸相」を断片的に読む。
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小林秀雄と多和田葉子論が抜群に面白い。小林秀雄は朗読というかパフォーマンスのおもろさに比べて書くことはすげーくだらないなという印象が強いんだけどそれは佐々木さんも問題にしている「鳴った」という謎の時制によるところが大きい。
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なので以前、初出のこのテクストの前半(後半は書き下ろし)を読んだときにそうだよな、と思っていたんだけどフルバージョンが読めたのは嬉しかった。
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創造は次の創造を誘発するのが一番いい、えらいと思っている。これはつまり音楽だったら「いい音(楽)だな、おれも頑張ろう」という気持ちになって作業に駆り立てる何かがある、ということなんだけど、まあそんなことは稀だし個人の創造は誰も止められないからなくても存在理由はある(でもそういう音楽は本当にエライと思っている。青臭いのを承知で書くが売れる売れないという価値基準は売れたほうがいいよな、くらいには持っているけど、ウワッこれはすごい、音楽作らないと!と思わせるものには全くかなわない、というか比較にならないんだな。これが。)。
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しかし批評は別だ。書かれた人間の存在を左右することもあるということとは別に読んで次の創造に導かない批評というのはクズだ。感想文以下の印象批評が幅を効かせてるのは吐き気がするし音楽ジャーナリズムもひどい。あ、次の創造っていうのは書かれた人にとってね。こういう見方もあるのか、とかここに気づく他者もいるんだ、というのはかき立てられるものがある。
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当然ながら優れた批評はそれ自体が創造であり作品でもあるから「こんなに素晴らしい文章があるんだおれも書いてやろう」と思う批評家の卵を刺激することは勿論有意義だが、しかしそこには他者の作品というファクターが存在する以上、読者の存在は通常のテクストよりも大きくなる。
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で、僕にとって重要なのは事実と読み取りから溢れるたくさんの糸だ。
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多和田葉子とカールステン・ニコライについて書かれたいくつかの事実としての背景とそこから引かれるバラバラな線はベンヤミンを経由したりしながら二人のコラボレーションのCDをもう一度聴いてみよう、多和田葉子を読んでみようという気持ちに至る。それを可能にするのは思い込みや誇大妄想、作品との出会いに関する誇張などではなくて、情報と呼ぶには精緻な事実であるということが重要な気がするしこの評論には確かにそれが存在している。