2006 11 26
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昨日、ビル・ヴィオラのことを書いていて気づいたのだが
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僕が興味あるのは現象であって感情ではない。感情には興味がない。意識と感情は違うと思うのだが同一の地平で語られることが多い意識論みたいなのに興味が持てないのもそこだ。
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だからJGバラードが好きだしカフカが好きだしストラヴィンスキーが好きだ。前にも書いたがJGバラードの小説は目に見えるものの羅列とわたしに起きている現象のみで構成されていて、グレッグ・イーガンのように主人公が苦悩したり頭を抱えたりしない。
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実際的なプロセスでどうしようか、と試行錯誤したりすることはあるが実在論には向わないので他者(古い言葉で言うと外部)と自分の間で苦悩したりする、というものを小説でも映画でも前にしてもどうにも実感が湧かない。というかどういうことかよく分からない、という欠陥があって買ってきた多くの小説が完読できないで、なんかしっくりこないなと思って投げ出すのもそこだという気がする。な。
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音楽でもそうで、伝えたいことがあるとかいうのを心底信用できるかと言えばできないし、大体そういうことに適しているメディアでもないから口で言えば分かるよ。と思ってしまう。
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ただ何かのための音楽、例えば運動のために歌う音楽というのは実際的な役割と効能があるので非常によく分かるしそういう音楽外のコンテクストに触れたときに音楽をつくるということが揺さぶられたりすることには興味がある。
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そういえば最近聞いた話で興味深かったのは
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勝新太郎の息子が撮影で誤って人を斬ってしまって救急車で運ばれたときに、勝新太郎は自ら付き添って救急車に乗って、物凄い鮮血は噴き出しているのを実際に見ていたらしい。
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で、人が斬られるとこんなに血が出るのかということを知ってから座頭市の撮影に入って殺陣の演出では鮮血が噴き出しまくるということになっているらしいんだけど、これは非常によく分かるというかしっくり感じがある。こういうのを冷徹とか何とか言ってしまうクルクルパーが結構いるのも分かるし、その手のやつが最近の子供自殺問題についてテレビで喋ってたりするのを見るとあまりよくない方向の面白さがあるのでチャンネルを変えています。
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ちなみに僕は子供はいませんが、もし自分の子供がジャレ合いを超えるような理不尽なイジメにあったら乗り込んでイジメたやつを徹底的にブッ飛ばしますが、恐らくこれは呉智英のアダ討ち論と同じ程度には試す価値のある解決方法だと思います。