2014 07 06
敏感さの時代から鈍感さの時代へ
パリに来ています。今回の滞在はちょっと長めかも。
10/20にシャトレ座でやるソロコンサートの準備を劇場のスタジオでするというのが目的で、色々面白い話があるから今度書きますね。
出発する前日に池上高志さん、新津保建秀さん、evala君という本当に近しい友人が集まってくれて久しぶりにIVY PLACEのテラスで食事をした。
そのときに話したこと。
90年代後期からゼロ年代にあったテクノロジーやアートの流れ、簡単に言うとミニマリズムを徹底的に推し進めた果てに何があるか?みたいな運動が断ち切られたのはなぜ?
という池上さんの問いに僕は咄嗟に「敏感さの時代から鈍感の時代になったからでしょう」と答えたんだけど、何故そんな風に答えたのかわからない。故にそれは実感なんだと思う。
簡単に言うと「冷蔵庫のノイズも音楽に聴こえる」とか「ある一つの音色に情報量や官能性や中毒性をみる」という敏感さはゼロ年代を10年かけてもの凄い勢いで衰退した。
代わりにエレクトロを通過してEDMやベースミュージックのような圧倒的な、ラーメン全部乗せのような「鈍感さ」を誇示する時代になった。
音色は作るものではなくソフトウェアで完成されたものから選び、編集するものになった。
情報量は溢れさせておいて、聴く人に自由にすくわせるものになった。
ザクッと乱暴に同時代性を横目で視るとアートもアイコンや記号性、歴史性に手を突っ込んだものがミニマリズムよりも圧倒的に優勢だ。
このリンクはなぜかはわからない。同時にいいとか悪いとか残念だ、とかいう感想は全くもって意味がなく単に状況がそうなのだ。
自分の創作に引き寄せて、圧倒的な終わりを前にしてミニマリズムでは対応できない現実がとか言うつもりは全くないけど、世紀の変わり目なんだからモードが変わるのは当たり前だとして、この変化の本当の理由がわからないまま終わりはいつか来る、という気もする。というかそんなイメージが未来の残像のようにある。
目の粗いざるの中に個々のフラクタルを見つけるときはくるのだろうか。
ひとつ言えるのはゼロ年代に病みは進行して、その結果を10年かけて開示するちょうど折り返しに僕たちはいる。
だって敏感→鈍感の変化はあまりにも滑らかだったから。
本当の終わりの直前にこぼれだす敏感さはみてみたい。