2013 08 12
One(X) Part1
去年、ジョン・ケージ生誕100年だったんですよね。
で、名古屋の愛知芸術文化センターからオファー頂いてOne(X)というケージ最晩年の曲を同時演奏するコンサートをプロデュースしたんです。
で、記録映像をupしてみました。
これ非常にやってて面白かった。
東京からもたくさん観に来てくれて、チケットは即完売だったので見れていない人のためにとか思ったんだけど、逆に言うと東京で今これをやりたいと手を挙げるホールがないのが残念。なんてね。
演奏曲目
One,One5 for Piano
One3 for unspecified (amplified ambient sound)
One6,One10 for Violin
One7 for unspecified(不確定楽器)
One8,One13 for Cello with curved bow
One11 for film
One12 for Voice
出演者
ピアノ:渋谷慶一郎、ヴォイス:Salyu、ヴァイオリン:辺見康孝、チェロ:多井智紀、
不確定楽器:飴屋法水、コンピュータ:evala、ダンス:アレッシオ・シルヴェストリン、康本雅子
up問題あるかたいたら連絡くださーい。
プログラムのために僕が書いたテクスト。
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ジョン・ケージ生誕100年記念コンサート One (X) について
渋谷慶一郎
ジョン・ケージの最後期に「ナンバーピース」と呼ばれる膨大な作品群がある。
楽譜にはいくつかの音符からなる和音や単音、音型が記譜されており、それらを「何分何秒から何分何秒の間に弾け」という指示が数字と矢印によって簡潔に書いてある。
つまり弾く音は完全に決まっているのだが、弾くタイミングや速度はある時間の振れ幅を持ちつつも完全に決定はされていない。
はっきりとしたメロディやリズムはなく、しかし不協和やノイジーな音楽かというとそうでもない、穏やかな緊張と「美しさの直前」のような他に聴くことが出来ない時間の伸縮が持続する。
曲のタイトルは全て演奏者の人数を表しており、例えば「One (1987)」はピアノ・ソロ、「One6 (1990)」はヴァイオリンソロといった一人の演奏家のための曲が13曲あり、「Two」のシリーズは二人の演奏家のための音楽が6曲といった感じで続き、それは最大で「108 (1991)」といった特殊な大編成のオーケストラのための音楽にまで発展する。
僕なりの多少の深読みが許されるなら、ケージがナンバーピースで目指したのは「完全な即興でもなく完全に書かれた楽譜に従って演奏するのでもない音はどのように書けば可能か?」ということだと思う。
これは演奏における自由とはなにか?という問題にも直結する。
なんでもありの完全即興の「自由」でもなく、書かれた楽譜を正しく弾く「制御」でもない、その中間で揺れる音色と演奏。
そしてそれは自由とは何か?という問いともすごく近い。
ナンバーピースは頻出するサイレンスや極端に少ない音数が特徴的であり、多くの作品は「能のような」と形容される極度の緊張感に満ちている。
そのためコンサートは少ない聴衆の中で長時間に渡って行われたことも多く、ケージはこの時期に聴衆を失ったという説もあったりもする。
また、ここには「プリペアードピアノのためのソナタとインタリュード(1946~48)」のような透明な叙情もなければ、「4分33秒 (1952)」のような明快なコンセプトやパフォーマンスもない。
しかし、この豊穣な死体のように横たわる膨大な作品群はケージが晩年に辿り着いた境地であることを疑う余地はない。また、上記したようにそこには音楽の進化、未来の音楽に通じる問いが含まれているという確信が、僕にはある。
実際、複雑系研究者の池上高志(東京大学教授)と第三項音楽という非線形科学の応用によるコンピュータミュージックのプロジェクトを2005年に始めたときに僕たちはナンバーピースを聴き漁り、作品について調べ続けた。
反復と持続、変化とランダムネス、確定と不確定といったテクノロジーと音楽を巡る問題がここにはほとんど内在していると同時に、時間が震えるような繊細な変化をコンピュータで生み出せないとエレクトロニック・ミュージックはここから先に行けないのではないか?というあのときの直感は正しかったと思う。
今回のOne(X)ではケージのナンバーピースの中でも一人の演奏家のために書かれた「One」のシリーズ13曲から10曲を選び、それらの同時演奏を試みたい。
しかし、これらの作品は当然、同時演奏を意図されて作曲されていない。
というよりも、「一人の演奏者のための」というコンセプトを考えるとむしろ禁止されていた可能性が高い。
しかしこの世界にケージはもういない。
作曲者の意図に従って演奏会を開くよりは、ケージの本質を見習って多少の暴力性をもってこれらの作品の読み替えと変型、異化を試みたいというのが僕のこのコンサートに対する欲望である。
最小限の音の断片と時間に関する指示が書かれた整然と書かれた楽譜は、まさに音楽が生まれる最小限の「手がかり」という言葉がふさわしい。
それぞれの演奏家がその楽譜とストップウオッチをだけを手がかりに独立した時間と身体による演奏を行うのだが、それらが偶然のように重なる時間を聴いてみたいと思ったのがそもそもの発端だ。
そして一人の演奏者のために書かれた音楽が相互に反応や干渉することなく重なり、一本の音の線が響きとなるときにいわゆる連帯のための音楽とは違った別の調和の可能性を見出だすことは出来ないだろうか?という目論みもあったりする。
また、ケージはマース・カニングハム舞踏団との継続的なコラボレーションでも知られ、そこにはいわゆる音楽とダンスのインタラクションはなく別個に進行する身体と時間が提示され続けた。
今回はの公演では二人の希有なダンサーによるナンバーピースの身体的解釈とも言えるダンスがそれぞれソロで演奏と同時進行することになっている。
また、音響的には水平方向の5.1chサラウンドと垂直方向の5.1chサラウンドシステムを掛け合わせた12台の多面体スピーカーによる10.2chのサラウンドシステムを組むことによって、こうした多層的な予測不可能性を単なるコンセプトレベルで終わらせるのではなく、明確に知覚・体感出来るようにしたいと思っている。
【一人の演奏家のための「One」の複数(X)人による同時演奏】、という矛盾をケージはあのスマイルで喜ぶだろうか?それとも怒るだろうか?
しかし作品が問いであり続けることによって生き延びるケージに対して、演奏で答えを探すのは彼の術中にはまっている。そうではなく、演奏することでさらに問いを掛け合わせるようなコンサートがあってもいいと思う。
そして彼が晩年のナンバーピースを通じて目指した「即興と確定の中間」の響き感じることが出来ればコンサートは成功だと思う。
それが少しでもこれからの音楽100年の手がかりになればと思う。