ATAK026
Berlin
Keiichiro Shibuya
ATAKの設立20周年を記念し、新作エレクトロニクスアルバム『ATAK026 Berlin』を9月11日にリリースした。本作は20周年を記念し、2008年2月にドイツ・ベルリンのテクノロジーアートの祭典トランスメディアーレで行われたライブパフォーマンスのために制作された楽曲群を2022年に新たに再構成、細部に至るまでエディットし直し作り上げた。
収録されているサウンドは、複雑系、人工生命研究者で東京大学教授の池上高志とのコラボレーションの金字塔でもあり、全てサイエンスデータからコンピュータ内部で変換、生成されたノイズの掛け合わせから作曲されている。また、ドイツの生物学者であり、カオス理論のレスラーアトラクター、および内在物理学で知られるオットー・E. レスラーと2008年当時にベルリンで行われた対話からの引用、彼自身の言葉が断片的に収録されている。
2008年はATAKの共同創設者であり渋谷のパートナー・mariaが亡くなった年だった。本作の元となるベルリンでのライブパフォーマンスはmariaが亡くなる4ヶ月前のことで、渋谷がピアノやオペラの作曲を行う以前、初期のATAKを象徴するような最も過激なノイズミュージックや電子音楽を制作する最後の年になった。
渋谷は「14年間この作品のことはずっと気になっていた。いつか必ず完成させたいと思っていた」と話し、ATAK20周年の節目である2022年に徹底的にエディットし直し、マスタリングはベルリンで活躍し渋谷の近作を担当しているエンジニアのEnyang Urbiksと仕上げ、mariaの誕生日である9月11日に本作をリリースするに至った。近年発表しているオペラ作品や映画音楽とも全く異なるサウンドだが、渋谷の音楽における原点であり、現在の作曲にも大きな影響を与えている。
また今回のリリースに合わせ、渋谷のコメント全文を公開する。
<渋谷慶一郎コメント全文>
このアルバムに収録された楽曲は2008年にベルリンで製作され、2022年に東京で一人でスタジオに篭りリメイク、ミックスダウンを行い最終的にベルリンでマスタリングされ発売の一週間前、2022年9月5日に完成に至った。
そして、この作品のことはずっと気になっていた。
いつか必ず完成させたいと思っていたのが気がつくと14年という時間が過ぎていて、今年になってから当時のプロジェクトファイルを古いハードディスクから探し出して開いてみると、無事に動いたので、当時気に入らなかったところやを手直しを始めた。
そう、こんな作品は二度と作れないかもしれないと思うくらい気になってたし、気に入っていたのだが、同時にどこが不満足か、例えばあの低音の処理はやり直したいとか、あそこはディレイをかけるべきだったということまで全て覚えていたから、エディットを始めてからはすぐにその作業に没頭した。
そうして作業していくうちに原型を留めないほど変形された曲もある。また、2008年当時にベルリンで対談した内在物理学(Endo Phisycs)で知られる伝説的な生物学者であるオットーレスラーの声の断片をアルバム全体に点在させようというアイディアが生まれたりした。
では、どのようにしてこの作品が生まれて、なぜ14年という空白が必要だったのか?
ここに至る過程を書いてみたいと思う。
2008年にベルリンで開催されたトランスメディアーレはテクノロジーアートのフェスティバルとしてはメディアアート、サウンドアート全盛の当時では世界的な中心といってもよい影響力を持っていた。そこで2006年に日本のYCAMで人工生命、複雑系研究者で東京大学教授の池上高志と制作した『filmachine』という作品の展示を行った。僕にとって初めての本格的な国外でのサウンドインスタレーションの展示だった。
キュレーターはアンドレアス・ブレックマンとステファン・リケレスの2人で、『filmachine』制作直後にステファンと京都で出会った僕はこの作品をトランスメディアーレで展示したいということを熱心にプレゼンした。
僕は基本的に自分の作品をプレゼンするようなことはなく、大概の仕事は相手からのオファーで始まることが多い。ただ、ステファンと最初に会ったときに昔から知っている友人のような感覚があり、彼と仕事をしたらうまくいきそうだという直観が働いて、あと彼と仲良くなりたい、もっと話したいと思って今よりもっと下手な英語で一生懸命、作品のコンセプトやシステムを説明した。
『filmachine』は一周8個のスピーカーが三層の24個のスピーカーと2つの床下に埋められたサブウーハー、LEDライトの明滅で構成された大規模なサウンドインタレーションで、作品の中央に細い棒の突端にライトで光るスイッチがあり、鑑賞者の誰かがスイッチを押したら轟音の作品と立体的な音の運動、LEDライトの激しい明滅がスタートし、作品が終わるまで誰も止めることが出来ない。(ちなみに本作のジャケットのスイッチがそれであり、指は偶然にもステファンの指である。)
つまり隠喩的にではあるが最終戦争や世界の終わりを意識した作品で、同様に終わりとは何か?死とは何か?をテーマにしたヴォーカロイド・オペラ『THE END (2012)』の6年前に僕は同様のテーマでこのような抽象的で過激なサウンドインスタレーションを作っていたことになる。
展示は非常に評判を呼び、ハイナーケッペルズが体験しに来て絶賛してくれて、同じ時期に公演があったサイモンラトルが指揮する彼のオペラに招待してくれたりした。この作品から何かしらの啓示を受けて教会に通うように毎日来てずっと佇んでいる女性もいたりしたのを覚えている。
そしてこの展示に関連したかたちで開催されたライブイベントで発表するために制作、作曲した作品がこのアルバムの元になっている。つまりこのアルバムに収められた曲は「ソロライブのために」作られたエレクトロニクスのみの作品で、2008年の2月、ベルリンで『filmachine』の設営の合間を見つけて本番のギリギリまで作曲は続いた。毎日毎日、evala君とホテルと展覧会場を往復して下手な英語でドイツ人に指示を出したりライブの準備をしたりしていた。
当時のことをその数年後に日記で僕はこんな風に回想している。
- 01. War Cut
- 02. Slave To The Rhythm
- 03. It doesn’t exist in Mathematics and Physics
- 04. Variations of Silence and Error
- 05. No one knows any reason
- 06. Metaphysical Things
- 07. The World as an Interface
- 08. Complex Systems
- 09. Near-death experiences
- Produced and Composed by
Keiichiro Shibuya (2008/2022)
- Sound Generated by
Keiichiro Shibuya and Takashi Ikegami
- Voice by
Otto Eberhard Rössler (Berlin, 2008)
- Mixed by
Keiichiro Shibuya
- Mastering by
Enyang Urbiks (Urbiks Studio)
- Designed by
Ryoji Tanaka
- Photographed by
Julia von Vietinghoff
- Production Management by
Natsumi Matsumoto
- Production by
ATAK
- Special Thanks
Stefan Riekeles
Andreas Broeckmann
Kazunao Abe
Takashi Ikegami
evala
mariaDedicated this album to maria, who founded ATAK together 20 years ago.

ATAKの設立20周年を記念し、新作エレクトロニクスアルバム『ATAK026 Berlin』を9月11日にリリースした。本作は20周年を記念し、2008年2月にドイツ・ベルリンのテクノロジーアートの祭典トランスメディアーレで行われたライブパフォーマンスのために制作された楽曲群を2022年に新たに再構成、細部に至るまでエディットし直し作り上げた。
収録されているサウンドは、複雑系、人工生命研究者で東京大学教授の池上高志とのコラボレーションの金字塔でもあり、全てサイエンスデータからコンピュータ内部で変換、生成されたノイズの掛け合わせから作曲されている。また、ドイツの生物学者であり、カオス理論のレスラーアトラクター、および内在物理学で知られるオットー・E. レスラーと2008年当時にベルリンで行われた対話からの引用、彼自身の言葉が断片的に収録されている。
2008年はATAKの共同創設者であり渋谷のパートナー・mariaが亡くなった年だった。本作の元となるベルリンでのライブパフォーマンスはmariaが亡くなる4ヶ月前のことで、渋谷がピアノやオペラの作曲を行う以前、初期のATAKを象徴するような最も過激なノイズミュージックや電子音楽を制作する最後の年になった。
渋谷は「14年間この作品のことはずっと気になっていた。いつか必ず完成させたいと思っていた」と話し、ATAK20周年の節目である2022年に徹底的にエディットし直し、マスタリングはベルリンで活躍し渋谷の近作を担当しているエンジニアのEnyang Urbiksと仕上げ、mariaの誕生日である9月11日に本作をリリースするに至った。近年発表しているオペラ作品や映画音楽とも全く異なるサウンドだが、渋谷の音楽における原点であり、現在の作曲にも大きな影響を与えている。
また今回のリリースに合わせ、渋谷のコメント全文を公開する。
<渋谷慶一郎コメント全文>
このアルバムに収録された楽曲は2008年にベルリンで製作され、2022年に東京で一人でスタジオに篭りリメイク、ミックスダウンを行い最終的にベルリンでマスタリングされ発売の一週間前、2022年9月5日に完成に至った。
そして、この作品のことはずっと気になっていた。
いつか必ず完成させたいと思っていたのが気がつくと14年という時間が過ぎていて、今年になってから当時のプロジェクトファイルを古いハードディスクから探し出して開いてみると、無事に動いたので、当時気に入らなかったところやを手直しを始めた。
そう、こんな作品は二度と作れないかもしれないと思うくらい気になってたし、気に入っていたのだが、同時にどこが不満足か、例えばあの低音の処理はやり直したいとか、あそこはディレイをかけるべきだったということまで全て覚えていたから、エディットを始めてからはすぐにその作業に没頭した。
そうして作業していくうちに原型を留めないほど変形された曲もある。また、2008年当時にベルリンで対談した内在物理学(Endo Phisycs)で知られる伝説的な生物学者であるオットーレスラーの声の断片をアルバム全体に点在させようというアイディアが生まれたりした。
では、どのようにしてこの作品が生まれて、なぜ14年という空白が必要だったのか?
ここに至る過程を書いてみたいと思う。
2008年にベルリンで開催されたトランスメディアーレはテクノロジーアートのフェスティバルとしてはメディアアート、サウンドアート全盛の当時では世界的な中心といってもよい影響力を持っていた。そこで2006年に日本のYCAMで人工生命、複雑系研究者で東京大学教授の池上高志と制作した『filmachine』という作品の展示を行った。僕にとって初めての本格的な国外でのサウンドインスタレーションの展示だった。
キュレーターはアンドレアス・ブレックマンとステファン・リケレスの2人で、『filmachine』制作直後にステファンと京都で出会った僕はこの作品をトランスメディアーレで展示したいということを熱心にプレゼンした。
僕は基本的に自分の作品をプレゼンするようなことはなく、大概の仕事は相手からのオファーで始まることが多い。ただ、ステファンと最初に会ったときに昔から知っている友人のような感覚があり、彼と仕事をしたらうまくいきそうだという直観が働いて、あと彼と仲良くなりたい、もっと話したいと思って今よりもっと下手な英語で一生懸命、作品のコンセプトやシステムを説明した。
『filmachine』は一周8個のスピーカーが三層の24個のスピーカーと2つの床下に埋められたサブウーハー、LEDライトの明滅で構成された大規模なサウンドインタレーションで、作品の中央に細い棒の突端にライトで光るスイッチがあり、鑑賞者の誰かがスイッチを押したら轟音の作品と立体的な音の運動、LEDライトの激しい明滅がスタートし、作品が終わるまで誰も止めることが出来ない。(ちなみに本作のジャケットのスイッチがそれであり、指は偶然にもステファンの指である。)
つまり隠喩的にではあるが最終戦争や世界の終わりを意識した作品で、同様に終わりとは何か?死とは何か?をテーマにしたヴォーカロイド・オペラ『THE END (2012)』の6年前に僕は同様のテーマでこのような抽象的で過激なサウンドインスタレーションを作っていたことになる。
展示は非常に評判を呼び、ハイナーケッペルズが体験しに来て絶賛してくれて、同じ時期に公演があったサイモンラトルが指揮する彼のオペラに招待してくれたりした。この作品から何かしらの啓示を受けて教会に通うように毎日来てずっと佇んでいる女性もいたりしたのを覚えている。
そしてこの展示に関連したかたちで開催されたライブイベントで発表するために制作、作曲した作品がこのアルバムの元になっている。つまりこのアルバムに収められた曲は「ソロライブのために」作られたエレクトロニクスのみの作品で、2008年の2月、ベルリンで『filmachine』の設営の合間を見つけて本番のギリギリまで作曲は続いた。毎日毎日、evala君とホテルと展覧会場を往復して下手な英語でドイツ人に指示を出したりライブの準備をしたりしていた。
当時のことをその数年後に日記で僕はこんな風に回想している。