2004 10 20

10 20

夕方すごい雨の中、悠治さんの家へ。30年くらい前に使っていたらしいYAMAHAのCF-15シンセをもらいに家に行く約束をしていて、シンセなんか運べるのかよっていうくらいスゴイ雨だったんだけど常日頃、天気で予定を変えるのはアホだと言い続けているので行ってきました。シンセはMS-10を少し大きくしたようなサイズで重さは軽い。っていうか最近ジムの成果か重い。と思うことがあまりない(誰だ→おれ)。悠治さんの家で最近の作品:ガートルド・スタインの朗読をプロセッシングしたものとか最近はまっているダブとレゲエ(!)のCDを聴きながら色々話す。
ちなみに僕と悠治さんは「キーボードという楽器は変だ」という見解で一致していてこれはもっと正確に言うと「キーボードを両手で弾くのは非常に変だ」ということなんだけど今回の結論としてピアノと違って体重というか力をかけるポイントが無いのにピアノのように弾くのは滑稽だということになって、これはホントにそうだと思う。発音装置としてはもちろん面白いんだけど楽器として、弾くための楽器としてあまりにも不完全なのは言うまでもなくて、よくラップトップのライブは身体性が無いからなんちゃらかんちゃらという意見があるがキーボードレベルの<身体性>だったらラップトップのほうがよっぽど自由だと思う。これも意見が一致した。たくさんの種類の音をいっぺんに扱ったり全体の方向をコントロールするというのは楽器的である必要はない。
大体、このラップトップとかの文脈で引き合いに出される身体性というものが何かよく分からない。これはずっと違和感があるんだけど楽器のように自由じゃないとかときの楽器というのは何を指しているのだろう。楽器が自由だという場合そのための技術というのが前提になってくると思うのだが自由な技術というのは滅多にない。音を出すという喜びに溢れている。とかいうのはこの場合関係ない。
僕はライブを見る、という興味はあまりないので音が良ければそれでいいじゃんと思ってしまうのだが例えばアクションとエモーションと結果として出た音が一体となっているものがやはり絶対的にいいというのは要するにアナクロだと思う。
実際に見たことは無いんだけど、話を聞く限りジェイミー・リデルのライブのような方法は身体性がある。と思う(自分がリアルタイムで出した音をコンピュータにサンプリングしてその場で組み合わせて音楽を作っていく。ピアノでそういうことをやろうと思っていたことがあった。多分来年以降だけどやろうと思っている)。

帰りにキーボードの他に18弦カヤグム(!)の演奏家による「橋をわたって」(悠治さんの18弦琴のための曲)が入ったCD(すごくいい演奏)と悠治さんと富岡多恵子さんが作った「けろけろころろ」というCD付きの絵本、11月にやるゴールドベルク変奏曲のコンサートのチラシをもらう。今まで彼からはすごくたくさんのものをもらった気がする。

雨の中、キーボードを担いで帰宅。CF15はすごく独特な音がする。で、多分sustain壊れていて一度キーを押すとプロセッシング状態になったままずっと鳴り続けて減衰しない。そしていわゆるシンセのいい音されている太さは微塵もない。悠治さんがこれを使ってたのは何となく分かるな。面白いから直さないでこのまま使おう。