2009 09 25

09 25

昼から電話、チャットでミーティング数件。
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その後、ベーゼンドルファージャパンで打ち合わせ一件。戻ってからevala君とYCAMでやる「for maria instalation version」の作業。
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こうやってfor maria、というかmariaのプロジェクトが出来ていくプロセスというのは救いだ。
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maria、という言葉を電話やミーティングで口にしている回数がすごく多くなっていることによって、抽象性の中に彼女を留めるのではなく、進行形の中に一緒にいる気がする。
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アルバムのfor mariaも非常によく売れていて嬉しい。
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作家の平野啓一郎さんがこのアルバムに寄せてくれたコメントを載せたい。
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「ATAK015 for maria」、気に入ってずっと聴いてます。
すごい作品、作っちゃいましたね。

「響き」の部分で起きていることと、「タッチ」の部分で起きていることとが、すごく緻密に、ある意味明快にデザインされていて、こんなにピアノという楽器の「かたち」が鮮明に浮かんでくる音楽は、ちょっと聴いたことがないです。
奥に向かっていくパースペクティヴをむやみに広げようとしないことで、前で起きていることが見失われないのかなと思ったりしましたが。

僕が嫌いなタイプのスノッブな「音響派」は、結局、「タッチ」の部分が「響き」の部分を操作するインターフェイスとしてしか捉えられてなくて、だから時間をくぐり抜けてそれをじっと聴いているのが退屈なのですが、渋谷さんの今度のアルバムは、響きの部分が独立して演奏されているかのように、タッチの部分と有機的に関連していながら、時系列の因果関係(タッチ→響き)を感じさせない。
そこのところがどうなっているのか、僕には分からないけれど、時々、鍵盤が押さえられる一瞬前からもう何かが響き始めているような感じがします。
だからこそ、メロディが立つというか。不思議ですね。直前に鳴っている音との相関性のマジックなんだと思うけど。

あと、やっぱり、人間の認知が無理なく着地できるメロディーやリズムのレイヤーが、リニアな時間の流れの中でスムーズに持続できるようにデザインされているところに技を感じました。そこを雑だと現在提示するのは難しいというか、本当にみんな聴かないから。

何て言うのか、マリアさんの存在があって出来上がったアルバムだとは思うけど、音楽がそこに寄っかかっていないところも尊敬しました。
宮本武蔵の「神仏を尊び、神仏を頼まず」(笑)じゃないけど、彼女をリスペクトしつつ、音楽が彼女に依存していないところに素晴らしさを感じます。
当たり前じゃんという話かもしれませんけど。

とにかく、傑作をものにしましたね。

平野啓一郎