2009 06 09

06 09

念願のマーク・ロスコ展@川村記念美術館に終了2日前に滑り込む。
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圧倒的でした。本当に行ってよかった。僕は移動が大嫌いなので電車でこの距離というのは通常有り得ないのですが、送迎バスとか乗ったかいがあった。
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僕は画集や本は持っているのですが、実物は圧倒的な密度と層が相互浸透するような三次元的な奥行きが印象的でした。実際デコボコしてるし。
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複雑なプロセスが単純なフォルムに収斂しているというのは常に理想的な創造であるというのは自明だけど、ロスコは明らかに絵画というフォーマットにおいて一つの到達点だと思う。
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例えばバーネット・ニューマンと比較するとそれは分かりやすい。
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ロスコの孤独はその複雑なプロセスを知り得るのは自分しかいない、ということで
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レイヤーというのはつまりそういうものだ。単一の時間、空間の中にプロセス、密度を凝縮していくという方法は、コンセプトにしろプロセスにしろ「提示すること」がメインタームな創造に比べて明らかに孤独の比重が高い。
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音楽でもそうなのだが、コンピュータで音をレイヤーしていくときに使っているデータの範囲も強弱も全てロジックやジャッジがあるのだけど、そのロジックが分からないとつまらない、というのは貧弱なアバンギャルドになってしまうので、回避するのは前提として
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結果的に良いかどうかということのみにフォーカスして、しかしその音楽の時間/空間的レイヤーの中に様々なロジックや方法が凝縮されている場合、そこにいるのは自分だけということになる。
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それは圧倒的な孤独なんだけど、レイヤーしていくということはそういうことだ。むしろ音楽の場合、完全にノンレイヤーの場合でもそうしたことは起こりえる。
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そして、このことを極めてヨーロッパ的な創造と完成の関係と言ってバッサリ切ってしまうことは可能かもしれない。
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が、そうした言説とその周囲から少し離れて冷静に眺めてみると、全てに終わりがあるという事実は、プロセスというものは断ち切られることがあっても方向性のないプロセスというものは存在しえないということを意味してしまう。
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つまり、プロセスの中にいるときは生きていくことが来ても、自分一人が存在する世界の中で立ち尽くすことが自分の創造になっていく場合、その孤独は果てしなく深い。ということは僕は分かる。
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というわけで、よく言われる宗教性的な側面に関する議論は僕にとってあまりにも浅く、興味が湧くものではない。
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そういう意味でシーグラム壁画の中では色々考え込んでしまったが、それはありえないくらい充実した時間だった。で、最後の黒の連作の空間で救われた気がする。
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僕はやはり黒が好きだ。黒の中に入って行きたいと思うことがよくある。
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