2008 05 28

05 28

昨日の日記の続きなんだけど、最近考えるのは鈍感な社会はいかに可能かというで、しかしこれは結構難しいと思う。なんでこんなこと考えるのかっていうと自殺が増えていることと、その傾向が分からないでもないからなんだけど。
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少し前に松本人志が(時々引き合いに出すけど僕はファンと言えるほど見ていないしお笑い番組は全く見てないに等しいのでパーソナルな意味で把握しているわけではないです。のでズレはあるかもしれないけど、まあ見出しとかになってるからこの件は知ってます)
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最近大流行の硫化水素自殺に対して「アホが死んだら別にいいねん」みたいなことを言って問題になったというのがあったけど、僕自身発言についてはどうも思わない。が、強いて言えばこういうのをいちいち、自殺が増えたらどうするんだとか自殺した人の身になってみろとか言ってギャアギャア騒いでるオバサン雑誌みたいなのには、まあお前みたいなのが死ねばいいんだよとは思うけど、別に死んでほしいとまでは思わないという無関心の極致です。
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で、問題はこれは言葉狩りとかそういうのとは違うレベル、フェィズの問題で、あんなのがいくら騒いでも抑圧できることはたかがしれているし、これを言葉狩りとか言ってしまうのは過大評価もいいところです。
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で、例えばこの松本人志発言に対して「こういう風に言う人もいるよな」というか、まあ(あえて言えば)変なこととか極端なことを言ったり考えたりする人間というのは一定数いて、それは仕方ないし、むしろ仕方ないというネガティブな捉え方ではなくそういう人がいるが故にある種の豊かさというかバリエーションは生まれるんだよな、と考えられるようなのは鈍感な社会だと思うのです。もちろんいい意味で、今の敏感すぎる社会に対して。
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つまり例外というか変なことは起こるというのが前提にできるかどうかというのは結構重要で、日本の社会というか組織、村社会的な集団ではこれが困難極まっているという印象なんですね。
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で、そういう発言が自殺を誘発するとかいうのは知ったこっちゃないですが、その自殺を誘発するとかいう記事自体には実効力があるというのは多分そうで、ほんとに増えてしまうということはあるでしょう。で、別にその数自体は増えてもいいとは思うんだけど現在の敏感な社会が加速するのはよろしくないんじゃないかという気はするんですね。というかその方向の加速は容易なのであまりよくない。
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だから敏感の矛先を変えるというのがいいいのか、それとも鈍感な社会を目指すべきなのかというのは難しい問題だと思うんです。ちなみに僕は鈍感な社会を目指すべきだと思っているんだけどこの情報環境の中でそれがいかに、どのように可能か、というのはちょっと分からない。実はかなり難しいという気もしてます。