2014 04 17

こんにちはさようなら

今週土曜日4/19から10日間ほどまたパリに行ってきます。

杉本博司さんの大規模な展覧会が4/24からパレ・ド・トーキョーで始まって、その展覧会のオープニングの次の日にコラボレーションのコンサートがあるのです。

杉本さんの映像と僕のピアノ、コンピュータというセットです。

 

 

「AUJOURD’HUI, LE MONDE EST MORT[LOST HUMAN GENETIC ARCHIVE]/今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という展覧会で、30作品以上の新作、旧作含む写真とインスタレーションで構成される展覧会で、静謐でミニマルでというこれまでの杉本博司像を裏切るものになるんじゃないかな。

 

僕はコンサートだけじゃなくて、インスタレーションの音も3つほどやっていて、というか作品のために新曲を3つ作りました。

それをKORGのAcoustageという非常にパーソナルで画期的な立体音響の技術とevala君に協力してもらって、作品に近づくと、どこから音が出てるのか分らないけど、音に包囲されるという感じになっています。

つまり見つけられないくらい小さいスピーカー2つで立体音響が可能になったんですね。

音は作品の内容に即してるんだけど、今書くとネタバレになるからもう少ししたら。

 

 

展覧会のタイトルの「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」はカミュの異邦人の一行目「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れない」の引用、変型ですよね。

つまりフランス人なら誰でも知っているフレーズの変型をタイトルに日本人のアーティストがパレ・ド・トーキョーで展覧会やるというのは非常に批評的で挑発的でフォーカスがはっきりしていて、射抜くような面白さがある。

 

これはコンセプチャルという言い方も出来るけど、音楽や美術で使われるコンセプチャルという言葉の形骸化されたというか、、、無邪気な突飛さというか、ちょっとした思いつきで変テコな作品が出来ました、みたいなのとは全く別のフランスに対する挑発というか批評、宣言のようなものだと思ったんですね。

 

僕は誰かと仕事するときに、その人の本質というか「なるほどなあ」と思うところがありそうで、それを知りたいと思う人とやることにしているのですが、それはこのタイトルの意図と、コンサートをすることになってからも続いたのです。

 

コンサートでは杉本さんの代表作のひとつである劇場シリーズを映像化して、それに合わせて新曲を作曲をすることになった。

 

で、これをやることが決まってからしばらくして、突然、杉本さんから「何かお題があったほうが面白いと思うんだけど、例えば展覧会のタイトル「今日世界が死んだ〜」に即してメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」は8曲から出来てるけど、その9曲目を渋谷が作るというのはどうか?」というメールが来たんです。

 

これも展覧会のタイトルをカミュから引用するのと同じことで、面白いなと思って色々考えてみた。

日本人の現代音楽の作曲家はメシアンの影響が強い人多かったけど、当然そういう文脈ではない。

フランスの作曲家、世の終わり、というキーワードでバサッと標的にするというのは、正しくコンセプチャルアートの方法で、なるほどなと刺激を受けた。

 

メシアンの世の終わりのための四重奏曲は変な曲で、というかモードの複雑なハーモニーとメロディと非常にシンプルなコラールというスタイルが微妙なバランスで混ざっていて、全体通して複雑さと単純さが入れ子になっている。

ハーモニーはモザイク状というか限られたパターンの組み合わせや入れ替えみたいなもので出来てたりするして、その背後にはキリスト教的な昇華というか永遠性の賛美みたいなものも明らかにある。

 

で、簡単に言うと全8曲の後の9曲目というのは出来にくい構造になっていて、5曲目と8曲目は突然、賛美歌のようなものなんですよね。
確かこれはメシアンがオンドマルトノのために書いた曲の引用と変型から出来てたと思うんだけど、最初と最後の整合性がとれてないというかとってないからその続きというのは考えにくい。

 

ただメシアンの「世の終わり〜」を引用して、劇場シリーズに音楽をつけるのは面白いと思ったわけです。

劇場シリーズは長時間露光で映画一本を一枚の写真に収めた作品で、そこにあるのは終わりも始まりもない凍結した時間だから。

 

しかも今回のバージョンは会場の「Salle 37」を劇場シリーズの最新作として撮影した写真から始まるという、これまでになかった自己言及的な側面もある。

「Salle 37」は1937年のパリ万国博覧会の際に建てられたパレ・ド・トーキョー内にある歴史的な映写室で、ずっと開かずの部屋だったんです。

だから劇場シリーズも、会場のSalle37も共通するのは凍結した時間ということで、というかSalle37というのは劇場シリーズのコンセプトを濃縮したような場所とも言える。

だから音楽でそれらを解凍するというのを思いついて試行錯誤してたんです。

 

劇場シリーズは言うまでもなく、もとは写真作品なので、映像化するのも非常に試行錯誤があって、THE ENDの映像を手がけたYKBX君に協力してもらって、複数の劇場が溶けるようにフェードイン・アウトして現れては消えるというものに定着した。

 

音楽はコンピュータのパートの中心になるのは、映像データを池上高志さんにオーディオデータに変換してもらったノイズで、映像で劇場が移り変わるのと完全にシンクロしてノイズの波が起きるんだけど、その中でメシアンの引き延ばされたハーモニーとか断片が引用されて進行していくのです。

 

最初に言われたお題の「世の終わりのための四重奏曲の9曲目」は映像とどうしても合わなかったから出来なかったけど、代わりに僕がやったのは、、、、

ピアノのパートを「世の終わりの〜」の1曲目の最初の和音→8曲目の最後の和音→1曲目の2番目の和音→8曲目の最後から2番目の和音という風に、時間が進むにつれてどんどん始めと終わりから遠ざかって曲の内部に浸食していきながら和音も変型していくというもので、これはなかなか面白い和音の連結というか響きが宙づりのままある感じになった。

 

同時に終わりも始まりもなく溶けていくという僕の終末観というか死生観とも繋がって、作りながら色々考えたりもした。

 

メシアンのCDからサンプリングしてどうのこうの、みたいな誰でも出来ることは面白くないからやってなくて、ハーモニーを抽出してストリングスで引き延ばして展開するんだけど、それが段々僕自身のハーモニー感というかクラスターのようなものに溶けていく。

その上でさっき書いたような、「世の終わりのための四重奏曲」内部に浸食していくピアノパートが別の時間として弾かれていったりという感じで、面白かったのはメシアンのハーモニーをストリングスでやるとマーラーやワグナーみたいに聴こえるということで、それは皮肉ですね。

 

これは知ってから聴いたほうが面白いかなと思って、あえて書いてみた。

パリにいる方は4/25と26の17時と19時のそれぞれ2回づつコンサートがあるからぜひいらしてください。

 

美術館の入場券があれば入れるみたいだけど、先着順なので場所争奪戦になりそう。

コンサートは全体で30分くらいで、前半では杉本さんの「海景」の映像バージョンを流しながらATAK018の「はじまりの記憶」のサントラから何曲か弾くことになってます。

パレ・ド・トーキョーのスタッフはATAK018が凄く好きらしくてこれは喜んでいるみたい。

 

「はじまりの記憶」は杉本さんのドキュメンタリー映画で、思えばこれのサントラをやったのが、今回のコンサートやインスタレーションでのコラボレーションにも繋がっているから面白いものだなあと思います。

もともと杉本さんの作品が好きで映画のサントラのオファーがきたときも「ジャケットにサボワ邸の写真使わせてくれるなら」と言ったくらいだったから。

 

コンサート終わったあとに杉本さんとサイン会もすることになってるんだ、確か。

 

ふうう。。久しぶりに長いの書いたら疲れた。これ誰か英訳か仏訳してくれないかな。

 

下記、コンサート詳細です。

 

杉本博司+ 渋谷慶一郎 コラボレーション・コンサート「ETRANSIENT」

映像:杉本博司

音楽:渋谷慶一郎(ピアノ、コンピュータ)

 

日時:4月25日(金)1st STAGE 17:00~ 2nd STAGE 19:00~

4月26日(土)1st STAGE 17:00~ 2nd STAGE 19:00~

会場:Palais de Tokyo – Room37(13 Avenue du Président Wilson, 75116 Paris, France)

入場方法:杉本博司 展覧会「AUJOURD’HUI, LE MONDE EST MORT[LOST HUMAN GENETIC ARCHIVE]/今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」の入 場券の提示で、同会場内 Salle 37でのコンサートを鑑賞可能。※各回約80名まで/予約不要/当日先着順で入場。

 

URL:杉本博司 展覧会「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」

 

URL:杉本博司(現代美術家)+ 渋谷慶一郎(音楽家)コラボレーション・コン サート「ETRANSIENT」