2007 09 01

09 01

前にも書いたサントリーサマーフェスティバルに行ってきました。mariaと池上さんと。
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プログラムは以下。
権代敦彦(1965- ):
コーラ/マトリックス母オルガンと笙のための 作品107(サマーフェスティバル20周年記念委嘱)

ルイジ・ノーノ(1924-90):
進むべき道はない、だが進まねばならない・・・・アンドレイ・タルコフスキー(1987)

武満徹(1930-96):
ノスタルジア〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に〜(1987)〜独奏ヴァイオリンと弦楽合奏のための

ジェラール・グリゼー(1946-98):
エピローグ(1985) 〜4人のホルン独奏者と管弦楽のための〜

マグヌス・リンドベルイ(1958- ):
キネティクス(動力学)(1988-89)
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やはり圧倒的にノーノとグリゼーがよかった。既存のオーケストレーションを脱構築するということで言わば真逆のアプローチとも言えるけどベクトルは近いと思う。ノーノは空間は配置したオーケストラの奏者がかなりがんばっていて、やはりステージ上のオーケストラの残響のようなソルポンティチェロが自分の頭の真後ろから聴こえてくるのは面白いですね。ちなみに僕の席は2Fの中央、通路前だったのですが。
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ただこの空間配置の可能性はノーノとクセナキス以降失速していると思うしそれは残念で仕方ない。と思いました。垂直的な(ホールの1F、2F)も含めてアイディアあるからオーケストラ委嘱してくれたらすごく面白いことできるのにな。
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グリゼーのエピローグは「音響空間」という大作の最後の部分なんだけど、やはりこれは全曲通してやるべきでしょう。今回のようにエピローグだけというのも、既存のオーケストレーションとは徹底的に距離をとって故に極限までやせ細ったオーケストラの死骸が横たわっている空間でホルンとオーケストラ/オーケストレーションの断片が空虚な呼び交しを続けて打楽器によって断ち切られるという安易なカタルシスの微塵もない構成で面白かったけど。
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やはりオーケストレーションうまいね!とかいうのは僕はイヤなんですね。そういう意味ではリンドベルイのキネティクスも悪くなかったんだけど、全合奏で豊かに響くところなんかはやはり山下真司っぽいというか「オマエなに言ってるんだよー」とかデカイ声で言いながら肩をバンバン叩くような感じで。最後のフィナーレで打楽器奏者が気が狂った大工のように叩きまくるのはビジュアルには面白い。
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武満のノスタルジアは僕が好きな「地平線のドーリア」とは対極にあるような弦楽合奏を主体とした曲で昔からこのベルグ的なものを素直に租借してという方向性はあまり興味ない。ベルグをポストモダンに(とあえて言うけど)読み替えるというのはすごく有効だけど、和声的に似てたりするし、しかしこういう曲は大学の作曲科で好きな人が多かったなー。なんで?っていう感じだったけど。
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権代さんは意外に思うかもしれないけど、結構親しくさせてもらっていて会うと盛り上がる、というかかなりアッパーな人で面白いのですが僕がやってるような音楽にも詳しくて、つまり音響的なアプローチというのにもある種の造詣があるかと思います。というか初めて会ったのは大学生のときだったな。
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で、今回の曲も演奏者の配置や光の使い方などシアトリカルな効果や構成も当然ながらよく出来ているのですが、この編成(笙とパイプオルガン)ならやはりドローン的なもののずれや振幅によってホール自体を巨大な音響体とするような持続が聴いてみたかった。頻繁に音符が見えるというか音型、モチーフの操作とか断片が浮かぶときが顕われるんだけどそれが効果的だったかは僕としては微妙です。僕だったら笙を増幅してどっちがオルガンでどっちが笙か分からないようにしたと思う。そういう瞬間もあったからなおのこと思うのですが。
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と、レビューとかやってみましたが全体的には非常に楽しめました。やはりこれくらい充実したプログラムだと満員で、しかし僕の後ろに何の招待だか分からないババア2〜3人が座っていて終わるたびに「全然分からなかったわあ」とか「ふぅ。。これも音楽。。ね。」とか言っていてうるさいから刺してやろうかと思いましたが何だったんでしょうか。単に来なければいいという話なんだけど、招待券の弊害ですね。