2006 07 01

07 01

ICCのシンポジウム「生態系としての社会」を見に行く。休日。パネラーは以下。

池上高志(複雑系システム論/東京大学大学院総合文化研究科助教授)
佐藤哲(生態学/長野大学産業社会学部教授)
安冨歩(理論経済学,複雑系システム論/東京大学大学院情報学環助教授)
司会:芹沢高志(アート・プロデューサー,P3 art and environment主宰)
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議論は噛み合ず極めて低調な印象。パネラーの見ている方向があまりにも違う。それ自体は問題ではないと思うのだが司会者はもう少しインタラクションを仕掛けるべきだったのでは。
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科学系のシンポジウムやレクチャーに行ってつまらないと思うことが多いのは「ここにこれだけの複雑さや課題があることは分かっているんだけどそれ以上どう踏み込むかっていうとですね、これがなかなか難しいんですよ」というとこに終始することが多いことで、これは困るんですね。
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とはいえあまりにも多い。カルチャーセンターならいいのかもしれないし、「カルチャーセンターのやうなもの」が好きな人たちというのは思ったよりもたくさんいるみたいなのでいいかもしれないけど。
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有意義な途中段階というのは生成的な立場からは存在すると思うし、僕はカルチャーセンター的な知のあり方に非常な嫌悪感がある。これはこのシンポジウムがそうだったということでも(少しそうかもしれないけど)カルチャーセンターが無意味だと言ってるのではなくてふぅーんそんなことあるんだあ、という感嘆符やそうそう、それ私も考えていたんです、みたいな安穏とした空気が気持ち悪いということで。
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まー僕の東大の講義も少しそういう部分があればとっつきやすいのかもしれないけど、どうしてもやりたくないのですね、そういうのは。ポテンシャルが下がるから。やはり教える、ということと作るということはかなり遠い。
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んで、シンポジウムに戻ると僕は魚の写真をたくさん見せられたり、「現地の」人の顔が無造作に写り込んだ写真を見るのが好きではない、ということが分かりました。あとやはり広い意味での現実(つまり知覚から生態系、社会までを含む)に対して素朴な超越論的立場というのは危険だ。つまり既にあるものに対して「モデル」という認識をするとき関係から生まれるものはあるのだろうか。科学はそういう危険に対して無防備なことが多い。