2005 12 17

12 17

ATAK@ICCのイベント1日目。高橋悠治さんを迎えたコンサートの日。僕が17:30頃ICC入り。18時からサウンドチェックで19時にオープンスタート。18時の時点ですごい列が出来てたらしくて会場は超満員。

予定では悠治さんが10分くらいやって茂木さんと対談、その後僕とデュオでということになっていたんだけど御存知の通り対談が波乱の展開(笑)で大幅に延長しました。前半の悠治さんのライブはラップトップのみで006に入っているのから北園克衛の詩を使ったものなど。で、茂木さんとの対談なんだけど非常に興味深かった。

詳細は以下でmp3をダウンロードして聴いて下さい。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/12/post_5ef9.html

悠治さんも茂木さんも非常に大切な友人なんだけど故にその相違点は少し理解していて、ただこの相違は結構重要なんじゃないかと思ったのがこの公開トークを思いついたきっかけです。それは小林秀雄を巡る近代と批評の問題に対するあまりにも対称的なスタンスはもちろん、実践と理論の関係やクオリアに関しても悠治さんの考えているところは大分違うだろうなと思っていて(ちなみに作曲家の石田秀実さんが書いていたクオリアも大分違った記憶がある)きっと面白くなると思ったんだけど予想は的中した。

しかし重要なのは違う、ということで。そもそもATAK@ICCという1つのインスタレーションと2つのコンサートから成る企画自体が問いの連続として成立するべきだと思っていたので、対立や意見の相違の可能性は予測していた、とはいえ予想以上でもあったけど笑。ただ、最近はあまりにも安易な答え。のようなものが多すぎるのが問題で(不安なのかな)対談にしても仲良しのおしゃべりの範疇を超えないものがほとんどなのでそうした状況を考えてもこの日の対談は非常に刺激的なものになったと思う。それはあの緊張感と笑いの交錯するザワついた空気が表していたし、僕自身も非常にザワザワした。

面白い、ということはモノを作るきっかけになるが美しいということはならない。という悠治さんの言葉が印象に残っている。それに対して自己批評はどこにあるのか、ということについてはイベントが終わった後にも地下のカレー屋で茂木さんとも少し話したんだけど、この場合必要なのは判断でありクオリティに対する意識でそれは批評という言葉が持つ近代、厳密に言うとヨーロッパ近代的なそれではないのではないんじゃないかという気がする。自己批評と判断は違う。

デュオのコンサートは時間にして20分くらいだったけどイイ感じで出来たと思う。僕はコンピュータ1台とorgon systemという電気回路のようなツマミだけのシンセサイザーもコンピュータにインプットしてやってみた。終了後、前述したようにカレー屋で軽く食事の後、明日のリハーサルを25時過ぎまで。