2005 05 13

05 13

今日はoffなので「Variations on a Silence――リサイクル工場の現代芸術」を見に行く。クリスチャン・マークレーとフローカフマンのタブラ・ラサの公演も今日なので両方見れる。こういう意欲的なプログラムを若いセットエンヴのチームが実現したことは評価されるべきだと思う(段取りに関して不備といささかの疑問があったものの、多分状況的に大変だったのだろう)。

インスタレーションの展示はリサイクル工場という会場との連関を考えるとやや物足りなさを感じる。
タブラ・ラサはマークレーによるレコードなしのターンテーブルのフィードバックをカフマンがその場でアナログカッティングしてレコードに、そのレコードをマークレーがターンテーブルでミックスして、それをまたアナログカッティングして、という生成と複製の無限ループによる音響的レイヤーと多分に記憶の問題にフォーカスした作品、というかパフォーマンスでプロセスやコンセプトは面白いが実際にリアライズされる音は好きではなかった(まず僕はアナログの高域のフィートバックというのが非常に苦手だ)。

プロセスと結果ということについてここで書いたりする時間はないから省くけど、世代の問題は単純に大きい気がする。結果に対する厳密なコントロールに対する生理的な共感は恐らく僕くらいの世代を境に強まっている。では現在、プロセスとコンセプトに大きく依拠した作品にどう対峙するか。これは結構、難しい問題で多分、リアルタイムでそうしたスタイルが主流だった時代を経験していない若者が現在そういった方法と態度に共感を示すとしたら1)自分がその延長にあることをやっている、2)歴史主義的な勉強が好きだ、3)非常に芸術という枠組みに対する情景と文学的な嗜好が強い、という3つのうちのどれかか全部だと思うのだがこれは別に悪いことではない。ただ、文学性というのは記憶や歴史に対する単線的な解釈によって生まれることが多い。その場合にある種のリアリティとか驚きが存在するか、いやしないなというのは現状だ。ではマテリアリスティックなミニマリズムの応用は圧倒的な優位を保っているかというとそれは違う。スタイル、という情報的判断の範疇にあるミニマリズムは死んでいる。当たり前だがミニマルであることが目的化したものを見るのは辛い。この話はまたそのうちに。

刀根康尚さんに初めて会った。60 soundsで何の面識もない僕に協力してくれたことを僕はずっと感謝していて今日、お礼が言えたことは嬉しかった。びっくりするほど柔らかい印象の人で、話してて感銘を受けたのだがそれについてはここには書かない。すごく思うことがあるので。ドイツから帰ってきた足立智美君とも久しぶりに会った。